Flaneur-フラヌール-

50代からのSecond Life

3.11

こんなことを考えてしまったことを

本当に申し訳なくて

この日が来るたび、胸が痛みます。

 

8年前のその日

私は身体も心も悲鳴をあげる程

忙しく働いていました。

 

ひとつのプロジェクトチームをまとめ

複数の案件を進めるとともに

それとは別に、とあるお客様の周年記念誌を進めていました。

その他にも、年度末が迫る中、さまざまな案件を

3月末までに完了させなければならず

毎日が時間に追われていました。

 

前日、朝方まで仕事をしたため

起きることができず、少し遅れて出勤しました。

その間もチームの仲間が案件を進めています。

起きてすぐ、何も食べず会社に向かいました。

 

すでに携帯にはいくつかのメールと電話が私を急かしていました。

会社に着くとすぐに、あちこちに電話をかけ

次から次へと書類をまとめ処理していきました。

 

みるみる時間は過ぎていきます。

15時にアポイントがあり

それが終わったら、おにぎりくらい食べよう

そう思うものの、次から次へと電話が来て、メールが来て

アポの時間も怪しくなって来ました。

 

15分前、もー出なきゃ、間に合わない!

書類を束ねてカバンを持ち、立ち上がったその時

凄まじい揺れが私を、そしてビル全体を襲いました。

 

机の上の書類やパソコンが次から次へと崩れ落ちていきます。

背の高いキャビネットが倒れ

パソコンのディスプレイをなぎ倒しました。

みんな思い思いに安全な場所を探して社内を動き回ります。

 

揺れは途中からエンジンがかかったように激しさを増しました。

もしかしたら、ビルが崩れ落ちるのか、そんな思いがよぎりました。

フロアの向こうで、倒れているキャビネットとデスクの間に挟まっている人がいます。

私はデスクの上を乗り越えて近づき、キャビネットを持ち上げました。

中の書類が落ちたことで、軽くなって

持ち上げることができたのがラッキーでした。

 

そこから窓の方を見ると、普段は開いていない避難窓が

外側にブラブラと開いていました。

6階から、その窓が落ちてしまったら大変なことになる

そう思いブラインドの紐を取手に巻きつけ縛り付けました。

そして、次に逃げ道を確保しなくてはと

非常口の扉を開けた時、ようやく揺れがおさまりました。

 

外に出るべきか、どうなのか社内の人と顔を見合わせ

様子を伺いながら、恐る恐る非常階段を降りました。

外は騒然として、あちこちで人が佇んでいて

信号も機能していません。

会社の人たちと相談したところ

取引先も仕事をしている状況ではないということで

まずは戸締りをして帰宅することにしました。

 

私は、会社から比較的近いマンションに住んでいましたので

程なくマンションに着き、階段を使って自宅に辿り着きました。

部屋の中は、本棚も食器もタンスも足の踏み場もないくらい

メチャクチャです。

呆然と佇んでいた時

ちょうど妻もパート先から自宅に戻ってきました。

 

まずは近所の中学校に避難することにしました。

その時、朝から何も食べていなかったことに気づき

柿の種の小袋をポケットに入れて部屋を出ました。

高校生だった娘にメールしたところ

奇跡的に通じて、私たち家族は中学校で無事に落ち合うことができたのです。

 

中学校ではラジオを流していて

津波が沿岸の地区を襲い住民が200人以上、海岸に打ち上げられているとか

コンビナートが炎上したとか

報じています。

何が起きたの?何が起きてるの?

実感のないまま、体育館のパイプ椅子に座っていました。

 

やがて夜になり

多くの人が体育館に避難していました。

ストーブのわずかな暖かさを

老人や子どもに譲るようにして座り

時折、余震が体育館の窓や吊り上げているバスケットゴールを揺らし

皆がおびえていました。

 

ポケットの柿の種に気づき

空腹に耐えられなくなった私は

隠れるように、ポリポリと音を鳴らさないように食べてしのぎました。

 

寒さと空腹と

いつまた揺れるかも知れない恐怖心の中

眠気が襲って来ました。

しかし、それは連日の疲労から解放された

妙な気持ち良さをともなっていました。

私の心に浮かんできたのは

「もしかしたら

神さまが、私に休息を与えてくださったのかもしれない」という思いでした。

ひととき、次の日のことを考えず眠りました。

 

これが、後々、後悔の思いを生み出します。

 

翌週から、また忙しい日々がやってきました。

会社や自宅の片付け

全営業マンの3カ月の見込みをまとめ

震災による損失、お客様の状況

出来る限り詳細に、本社に報告することになりました。

また、自分の仕掛かっていた案件が年度末までに間に合うのか

それとも、間に合わなければ経費関係はどうなるのか

お客様との打ち合わせもしなければなりません。

 

沿岸部も担当していた私は

お客様との連絡も取れず、グーグルの安否情報などで

かすかに生存を確認するのみ

お見舞いに行けたのは約1カ月後になってしまいました。

 

よく晴れた日、国道を走り向かいました。

沿岸に近づくとアスファルトがめくれ上がっていました。

町の入り口の橋は津波で落ちてしまい

自衛隊が作ってくれた仮設の橋がかかっていました。

病院もスーパーも4階あたりまで窓がなくなっていて

あちこちに車両が泥まみれで突っ込んだまま放置され

小さな町が津波に飲み込まれた様子を物語っています。

 

1日かけてお客様を見舞いました。

そこで耳にした壮絶な出来事

 

グレーの壁のような津波が町を襲う様子

市場の屋上に避難したところに引き波が来て

たくさんの人が海に流されていくのを目の当たりにした人

避難していた建物から目の前の道路を見ていたら

歩いていた人や車が

次々と津波に巻き込まれていくのを目撃した人

水もなく、わずかな食物を分け合った人たち

見舞いの言葉も出なくなって

瞼が熱くなってしまいました。

 

それなのに、私は、いっときでも

「よっかった〜、解放された〜」と

「これは神さまが与えてくれたのだ」と思ってしまいました。

 

確かに、あの時は、自分のできることを精一杯したのだと思うのですが

3.11が来るたび

被災の人たちに何の力にもなれなかった

そして、一瞬でも「よかった」なんて思ってしまった自分が

情けない気持ちになってしまいます。

 

沿岸部のお客様と話をしたとき

「忘れられるのが一番辛いんだよね」と言っていました。

せめて、私ができること

あの日のこと、あの日失ってしまったものを

忘れないで生きていくことだと思います。

 

今日は、3.11

あの日、亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに

今も辛い生活を余儀なくされている方々の暮らしが

少しでも良くなりますように願います。

 

本日も日々の備忘録のようなブログに

おつきあいいただき、ありがとうございます。