Flaneur-フラヌール-

50代からのSecond Life

活動

活動と行動はちょっと違う。
動くことには変わりはないのだが、活動といったときには
活発に動くとか、いきいきと働くという意味合いが強くなり
自分から能動的に動いているように感じられる。

最近ぼくは、頼まれごとをいただいてから
久しぶりにいろいろ考えてみたり
いろんな人にあって経緯を説明したり
それぞれに役割をお願いしてみたりしている。

おそらく以前とあまり変わらないぼくに
会う人たちは違和感を持たず付き合ってくれているようだ。

しかし、進んでいくうちに
このまま進むのが正しいのだろうかと迷うことがある。
そんなとき、能動的に動いている自分が
単なる行動になって勢いをなくしてしまっている。

50代後半のガラパゴス状態に陥ってしまったおじさんが
ラッキーなことに仕事を頼まれ、それを手伝ってくれる人がいる。
例え、期限付きのことだとは言え
恵まれたことなんじゃないか。
世の中には、厳しい現実のなか、立ち尽くしたまま
動くことすらできないでいる同年代もいるのだ。

この先
こんなことをしたらどうだろうか
あの人に会って相談してみようかと考えていくと
いやダメだなと気持ちがマイナスに触れていく。

 

昔読んだ「アランの幸福論」を思い出した。

 

宿命
われわれが始めることができるものは何もない。
腕を伸ばすこともできない。
神経や筋肉に命令を下して始める人は誰もいない。
運動がひとりでに始まるのだ。
われわれの仕事は運動に従って、できるだけそれをうまく仕上げることだ。
だから、ものを決定するのはわれわれではない。
われわれはいつも方向を与えてやるだけだ。

勢いのついている馬の首を向け直す馭者のようなものだ。
しかし、勢いづいている馬でなければ連れて行くことはできない。
これが「出発」という意味である。
馬はさっと緊張して逃げ去ろうとする。
馭者はこの跳躍に方向を与えるのである。
同様に、船も推進力がなければ、舵のいうことはきかない。
要するに、なんとしても出発することが必要である。
どこへ行くかを考えるのは、
まず、出発してからのことである。

 

考えるだけでは出発はできず
勢いがなくては進んだり、方向転換さえもできないと、アランは言っている。
まずは、出発することが重要なのだと。
ぼくに足りないのはこういうことなのかも知れない。
臆病に考えすぎて時間だけが過ぎていく。


未来は誰にも予測できない。
誰かに聞いても現時点では答えは見つからない。
なんでもいいからやってみる、進み始めるのだ。
そうすれば、勢いに乗って波の上を渡っていけるのかも知れない。
そして、新たな海原が目の前に広がるのだろう。

ただの行動ではなく、活動を。
今日一日は、そんな日にしていきたい。

 

本日も日々の備忘録のようなブログに
おつきあいいただき、ありがとうございます。

 

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