Flaneur-フラヌール-

Happyな日々

4月のUmbrella

4月1日 さくらが開花した

さくらの開花宣言がありました。

ちょっと仕事を抜け出し駅の展望台へ行ってみると、さくらが咲き始めてました。

学校帰りの高校生がTik-tokの動画を撮ってたり、傘をさしながらベンチで話をしてたり。そんななか、携帯のカメラを構えるのは照れ臭かったけど写真に収めてきました。

4月1日はなんだか慌ただしく、仕事のことで電話した相手から「実は異動になりまして…」とか言われたり。人が異動したり引越ししたり。いろいろと変化する時期なんですよね。

最近、気に入って聴いているのは、ミスチルの「Umbrella」。

派手さはないけど歌詞がいいです。雨上がりの街の情景と傘というモチーフ。

現在を歌い、過去の苦悩を振り返り、未来への希望を託す。静かなメロディ。櫻井さんの曲にはこういう歌詞の曲がもうひとつあって「ハル」という曲なんだけど、その空気感もこの季節にあっていて、とても心地よく感じられます。

今日は午後から雨降り。

「Umbrella」のなかにこんな歌詞があります。

折れ曲がったUmbrella
隣にいた君は
冷たい雨を避けられずに濡れていた

傘に入りきれずにびしょびしょになっていた君、
そして自分は傘のなかで濡れないようにしていた。ということなのかも知れません。

過去を振り返ったとき、そんな自分のずるさを思い出すこともあるのかな。

とか…

 

 

 

 

 

 

 

 

父のまなざし

四十九日には1週間ほど早かったのですが、父の開眼供養を行いました。

 

開眼供養はお寺さんの本堂で和尚さんに読経してもらいご焼香をします。位牌に魂をこめる儀式だそうです。

 

供養は10時半からの予定でしたが、兄夫婦とぼくと妹の四人が早めに揃ったので、10分前に始まり、それほど時間はかからず終えました。

 

兄の家で一服したあと、お昼を待ってみんなで町内の蕎麦屋へ。

 

以前、父の見舞いのときに兄弟3人で訪れた蕎麦屋でした。田舎町にしてはなかなかおいしい蕎麦や天ぷらを提供してくれるお店です。

 

壁に貼り出されていた旬の牡蠣天ぷらを見つけた兄は、単品ですかさず注文。

 

知らなかったのですが兄は大人になってから牡蠣が大好物になったらしく、松島に行って食べたことや、まだ牡蠣小屋では食べたことがないのだとか、熱く自分の牡蠣への想いを語っていました。

 

程なくして牡蠣の天ぷらが運ばれてきました。

熱々をみんなで食べました。大ぶりの牡蠣はかじると熱い汁が吹き出すほどで、とってもジューシーです。正直、いままで食べた牡蠣のなかでは一番絶品でした。

 

それから天ざる蕎麦が運ばれてきて、牡蠣の天ぷらに劣らぬ味わいにあっという間に平らげてしまいました。

 

美里町の「葵」という蕎麦屋です。

 

開眼供養の食事を終えたぼくらは、兄の家にもどり電車の時間までひと休みすることにしました。

 

姉さんが淹れてくれた温かいお茶を飲んでいると、兄が父の遺品だと言って一冊の句集を見せてくれました。

 

父は生前、句会に参加して、「柳居(りゅうきょ)」という雅号を名乗って俳句を読み、句会のメンバーと共に印刷までして小冊子に残していました。

 

「へぇー」と言いながら、ページをめくると、数ページにわたり父の読んだ句が書かれています。

 

ふと、ひとつの句に目が止まりました。

 

不精なる夫と言われて小正月

 

兄弟3人が共通して思い出す子どもの頃の思い出。

正月に初詣に行きたいとせがむ妹に放った父の名セリフ。

「オレを拝んでいればいい」

そう笑って、こたつに寝転がっていた父。

 

それ以来、我が家では、正月に家族で出かけるということを誰も期待しなくなりました。

 

家族みんなのひんしゅくをかっている自分を読んだ句を見て、父が自覚していたのだとぼくも妹も笑い転げました。

 

もうひとつの句が目に飛び込んできました。

 

木槿 子は連弾のステージに

 

あるとき実家近くの文化会館で、ぼくの娘のピアノの発表会がありました。孫娘のステージを見たときのことを読んだ句です。

 

娘はやせっぽちで力がなく、ひとりでは成果があげることができませんでした。ピアノの先生の計らいで、年上の子との連弾を勧めてくれたおかげで、全国大会に出場することもでき、娘にとっては大きな自信につながったと思います。

 

父はあまり感情を表に出さない人でしたが、白いドレスを着てピアノを弾く孫娘を客席からほほえましく見守ってくれていた、父の優しい眼差しが確かにそこにあったのだとうれしく感じました。

 

最後に、お世話になった施設の壁にずっと飾られていた句です。

 

枯れてなお 住居を飾る 夏の草

 

母は玄関先の小さな庭で草花を育てていました。猫のひたいほどのせまい場所にいろんな植物を植えて世話をしていました。夏が近づくと庭には見事なバラが咲いたものです。

 

そんな母の庭仕事をまったく手伝うこともしないで、ふんぞりかえって居間でゴロゴロしていた父。

 

「たまにはお母さんの手伝いでもしたら」と言っても、ただ笑っているだけでカラダを動かす素ぶりもありません。

 

それでも、夏に咲いた草花を摘んでドライフラワーにして居間に飾る、そんな母の姿を見ていたのでしょう。

 

「住居を飾る」という言葉に、安普請の家を少しでも華やかなものにしようとする母の気持ちと、その母に対する父の感謝がにじんでいました。

 

父は8人兄弟の末っ子で、物心ついた頃には父親が亡くなっていたので、父親の存在を知らずに育ちました。そのため、子どもにどう接するべきか悩んでいたようです。

 

父は何があっても怒ることもなく、子どもが進む道に口を挟みませんでした。

 

ときにはつくづく放任主義な親だと呆れたりもしましたが、いま思えばそうそうできることではないなと思います。

 

欲がなく、着るものにも無頓着。

いつも財布にはわずかなお金しか持ち歩かない人でした。

 

多くを語ることのない父が、実はやさしいまなざしで家族を見つめていてくれたのだと気づき、生きている間にもっと話をしていればよかったなと思います。

 

ただただ、ありがとう。

 

そんなことを思う一日でした。

カラダを動かそう

ジムに行くことにしました。

 

コロナ禍に突入してからというもの、せっかく覚えたヨガをやらなくなってしまいました。ジョギングでさえ感染の可能性があると言われていたから、近くの河原を走ることもしなくなったのです。

 

その頃、自宅でデザインの仕事をしていたぼくは、仕事に行き詰まりを感じていて、180度違う仕事を始めることを決意しました。

 

その後、3年もかかったけど新しい仕事はようやく流れができてきました。引き続きデザインの仕事もしていますが、徐々にそれは副業になりつつあります。

 

仕事が安定してくるにつれてゆとりというものを実感するようになり、休みの日には妻と映画を観たり、少しぜいたくな食事をしたりということが、楽しみのひとつになっています。

 

しかし、いいことばかりではありません。

 

このあいだ、寒くなってきたので、冬用のズボンを履こうとしたら、なんと!ウエストのボタンがしまらなくなっていたのです。

 

アウトレットで買ったナイジェル・ケーボンのコーデュロイのズボン。長年愛用してきたアイテムでしたが、それがはいらない!

 

イコール、他の冬用のズボンも軒並み敗北でした。

 

唯一おととし買ったユニクロの少し太めのズボンだけが味方になってくれて、今はそれを相棒にしています。

 

今年に入って、傾向はありました。

 

手のしびれが続いたのです。
作業を短く区切って、あい間にはできるだけストレッチしてほぐすようにしたところ、しびれは指先だけになり、肩こりも少なくなりましたが、あきらかに運動不足です。

 

ひと月ぐらい前に見たテレビで、吉永小百合さんが「ときどきジムに行って、スクワットを60回している」と話していたことに影響され、仕事の前にスクワットをするようになりました。今は35回ぐらい。

 

健康系の記事を読むと、スクワットは1〜2ヶ月で効果が出てくるようですが、これから年末にかけて、どうしても食べたり飲んだりが多くなり効果が半減するのは目に見えています。

 

年明けからにするか〜なんて悠長なことをやっていると、一度もお気に入りのズボンを履くことなく冬が終わってしまいそう。

 

それだけはどうしても避けたい!

 

ということで、お気に入りのズボンをもう一度履くために、ジムに通うことにしたわけです。

 

ゴールドジムの11月特別企画「2WEEKS」3,300円(通常6,600円)から始めることにしました。まず、2週間、泳ごうと思います。

 

これだけの長い期間、体を動かしていないのだから、いきなり走ったり、強度の高い筋トレをして、怪我でもしたら大変なことです。

動けなくなったら、元も子もない、さらに太ることは目に見えています。

 

12月初旬に大きな歯の治療が控えているため、その治療のあとに様子を見て、入会しようと考えています。

 

実は怖すぎて、体重計にも載れていません。

ジムで測ってみるつもりですが、どれだけ引き算すればズボンが履けるようになるのでしょうか。

 

今日の感謝

妻に「ジムにいく!」と宣言したら快く了解してもらえました。

太ったせいで、ズボンのみならず、セーターもピチッとして、少し縮んだように見えたみたいです。

それで早速手続きにいったのですが、ちょうどキッズのスイミングスクールが始まる時間で、プールを全面使うため一般の人は泳げないとのこと。開始日を3日後からにしてもらいました。

とりあえず、はじめるのが肝心。手続きは小さな一歩です。ありがとう!

過去を忘れる

幼稚園に行かせてもらえなかったことがずっとコンプレックスでした。

ぼくは三人兄弟の真ん中で、四つ違いの兄は保育園に、二つ年下の妹は幼稚園でした。正確には妹は幼稚園に通っていたと思い込んでいたのでしたが。

ぼくたち兄弟は仲が悪いわけではないですが、中学、高校、大学と進むうちにお互い干渉することがなくなり、成人になってからは特段連絡を取り合うこともなくなりました。

2年前に父が施設に入居し、兄弟で変わるがわるお見舞いに行くようになり、以前よりは少し連絡を取り合うことが多くなりました。

先日たまたま三人の都合があい、兄弟揃って父のお見舞いに行った帰りのことです。

 

電車のなかで、ぼくは妹に言いました。

 

「オレ、幼稚園に行かなかったんだよな」

「えっ、なんで?」

「お母さんに聞いたことあったけど、忘れててって言われた」

「えっ──!でも私も幼稚園、卒園してないしね──」

「えっ!なんで!」

「兄弟の送り迎えはダメだってことで!」

 

たしかに、ぼくには何度か妹を幼稚園に迎えに行った記憶がありました。幼稚園が終わる少し前に家を出て、幼稚園の廊下で待っていたことを覚えています。

記憶のなかの妹は、黄色い帽子をかぶり水色の園児服を着て赤いカバンを下げていましたが、それは短い期間のことだったようです。

 

妹との会話のあと、ぼくは長いコンプレックスを後悔しました。

 

父は中学の教師をしていて、母もパートに出ていました。極貧ではないけれど、それほど裕福でもない、若い夫婦にとって子ども三人を必死に育て生活を維持するのがやっとの時期だったのでしょう。

だから幼稚園の迎えに行くこともできず、家にいたぼくが迎えに行っていたのです。

見かねた幼稚園側は受け入れを拒否し、あえなく妹は幼稚園を中退ということになったようです。

 

日本在住歴約40年、ヨガの普及に努めるアニール・K・セティ氏は著書「心と体を楽にする『ゆるヨガ』77」のなかでこう書いています。

 

「嫌な過去も良い過去もどちらも過去に置くように訓練する」

「今日に生きるのが大事なこと」だと。

 

いま歳をとって考えてみると、さびしい記憶を思い出すたびにひがんだ気持ちを刻みこんでしまった気がします。
ねじ曲げられた記憶に縛られていたのですから余計なコンプレックスを持ち続けていたわけです。

 

施設のベッドに横たわる父を見ていると「人生は長いようで短い」と深く考えます。

 

過去を忘れる=いまを生きる

 

今更ながら、その大切さに気づきました。

辻村深月 ツナグ は心の隅々まで染み入る感動の長編小説!

「ツナグ」と続編の「ツナグ 想い人の心得」を一気に読んでしまった。

正直、読んでいくと、次の展開が楽しみになり、どんどん読み進めることができた。涙を流してしまうほど心を動かされた小説は、向田邦子さんの「あ・うん」以来だった。

とにかくストーリーに引き込まれる。登場する人物たちの心持ちが伝わってくる。

主人公歩美の微妙な心の揺れ。人と人の織りなす物語がリアルに感じられる。作者の辻村深月さんの文章力に引き込まれた。

 

死んだ人間と生きた人間を会わせる窓口。僕が使者(ツナグ)です。

 

祖母から「使者(ツナグ)」を引き継ぐことになった高校生の歩美、続編では引き継ぎ後、社会人となった歩美の使者(ツナグ)としての仕事を通して成長していく姿が描かれている。
いくつかの短編の組み合わせでひとつの物語を成す構成となっており、生きている者が「使者(ツナグ)」を通じて死者とふたたび会うというファンタジーだ。

すべてが素晴らしいが、印象に残ったところを伝えたいと思う。特に登場人物の放つ言葉に心が動いた。

まずほろりとしてしまったのは、1話目の「急死した人気テレビタレント・水城サヲリとひと時だけ彼女とかかわりを持った地味なOL・平瀬愛美」の再会。

 

アタシ、もらったものは手作りのおにぎりだって全部食べるよ。もったいないし、(中略)もともとそんな気取った育ち方もしてないしね。アタシ、確かに忘れっぽいし、人にしたことは覚えてないけど、してもらったことの方は覚えてるよ。

 

「してもらったことの方は覚えている」という律儀さと、さらっと言ってのける気取りのなさが、アイドル水城サヲリの優しい人となりを伝える。なぜだかここでホロリと来てしまった。

平瀬愛美からもらった手紙のことを覚えていたし、なぜ見知らぬいちファンと会う気になったのか。そのことも含めて、冒頭を飾るにふさわしいエピソードだった。

 

次に、「いつも親友を立てていた朗らかな女子高生・御園奈津と、彼女の事故死の秘密を抱えるその親友・嵐美砂」の話は、若さゆえの切なさと残酷さが描かれている。

 

わたしには、絶対に敵わないよ。

 

嵐は、この言葉を盗み聞きしたがために、聞きまちがえてしまう。今の今まで、ふたりでひとつのように過ごしてきた親友の仲にヒビが入っていく。

 

ある朝、御園はあっけなく事故で亡くなる。

 

ふたりの再会のあと、使者(ツナグ)が告げた御園の伝言はなにを意味していたのか。ぼくは死んでもなお色褪せない御園の親友を思う気持ちだと思いたい。

 

「突然、失踪した謎の多い女性・日向キラリと、彼女に去られて失意の中に生きる男・土谷功一」の話では本来、使者(ツナグ)がしてはいけない行為だったのかもしれないけど、会うことを恐れて、逃げ出してしまう土谷功一を諭す言葉が印象的だった。

 

歩美:彼女が待っています。
土谷:それも君の仕事か?
歩美:そうじゃないけど、見てきて知ってる。会って、必要なことを伝えなかったせいで、一生、そのことを引きずらなきゃなくなった人もいる。それがどれだけつらいか、見てるから来たんだ。

 

歩美のこの言葉に諭され、彼女の待つ部屋に戻る。そして会うことで、彼女の謎と失踪の本当の意味を知る。前に進む勇気をもらうのだ。

 

続編では、「亡くなった娘に会う母親・小笠原時子」の話が印象的だ。

 

みんなにお礼を言われた。あなたがいなければ瑛子がこの国に来ることはなかった。あなたは私たちと瑛子を合わせてくれた恩人だって。みんなから、たくさんありがとう、ありがとうとお礼を言われたの。

 

ドイツに留学した娘の瑛子が、いかに友たちに愛されていたかが伺える。母親は娘を亡くしたところから、娘の足跡をたどり新たな人生を歩んでいく。その姿がさわやかに描かれている。

 

1冊目の最後の章ではこれらの物語を使者(ツナグ)側の目線で描いている。同じ時間の流れを両サイドから見ることになるが、ますます物語に深みが増していく。

祖母から使者の役目を引き継いでいく過程、自らの両親の謎の死の真相までが語られている。

 

続編では短編に歩美自身の物語も組み込まれ、将来を共に生きていく人を見つけるまでのことが同時進行し、主人公が成長していく姿をも描いている。

 

よくぞこの巧妙で壮大な小説を書けるものだと感嘆するばかりだった。

 

生きるものと死者が、生きているうちに伝えることができなかった想いを伝え合う。朝日が差し込んでくると死者は消え、もう2度と会うことのない本当の別れを迎える。ひとりとして同じ別れはない。人の生死に向き合った素晴らしい小説だった。

 

すでに読んでいる人は多いと思うが、ひとりでも多くの人に読んでもらいたい名作だ。

 

三年連続で行きたい!遥かな道のり…みちのくの霊場・金華山!

宮城県牡鹿半島の先に浮かぶ島、金華山
1270年前、日本で初めて金が産出されたというみちのくの三大霊山のひとつ。
金華山黄金山神社は「三年連続参拝すると一生お金に困らなくなる」と言い伝えられている。

宮城県に住んでいながら、今まで一度も行ったことがない。
巳年ということもあり満を辞して行ってみることにした。

金華山へは船でいくしかない。
しかも定期船は1日1本。10時30分に鮎川港を出発し、13時に金華山から戻る船だけ。
他の方法としては、海上タクシーを予約するか、船をチャーターする。

ぼくのお店の休みは月2回。貴重な休みに失敗は許されない。

1ヵ月前から入念に調べた。
観光船は平日のため、予約しなくても乗れる。
2週間前にはタイムズカーでクルマを予約し、当日を迎えた。

仙台からは約2時間の道のり。
グーグルマップが弾き出した時間は、三陸自動車道を使って1時間58分。

8時に出発すれば30分前に到着するはず……だった。

石巻河南インターで降り石巻市内にさしかかった時、一抹の不安にかられグーグルマップを見ると、ルートから外れていた。が、クルマの流れに逆らうことができず、そのまま走り続けることとなった。

方角は間違っていないし、いずれはルートに合流する。大丈夫だ、と確信して進む。

やはり間違ってなかった。
分岐点となる渡波でルートに乗り直し、右に折れるとそこから牡鹿半島だ。

しかし、ここからが思いもよらぬ山道、カーブの連続だった。当然、スピードを出すことはできず、隣に乗る妻がクルマ酔いはしないかと心配になる。房総半島や伊豆半島に行ったことのある人ならわかるだろう。半島は観光地のくせに回り道はない。

焦る様子もみせず、ときどき、木々の間から見える太平洋の海がきれいだとかいいながら先を急いだ。

鮎川へ向かう道は一本道がゆえに、間違えることはないからか、どこまで行っても看板はなかった。

くねくね、くねくね、くねくね……走っても走っても辿りつかない。

出港まであと5分に迫ったとき、さすがに焦り、本当にこれで合っているのか、通り過ぎたのではないかと、もう一度グーグルマップを見た。

目的地のマークとほぼ重なっている。通り過ぎてはいない。

顔を前方にやると、それらしい港が見えた。
目の前に駐車場が現れ、ホエールランドらしい建物。どこにクルマをとめればいいんだ!
とその時、定期船は無常にも港を離れた。

ホエールランドというのは、鯨の博物館という観光施設。その昔、鮎川は捕鯨が栄えた港町だった。震災で津波をかぶり休館していたが、復興により整備され、立派な建物になっている。

ぼくと妻は落胆し、クルマから降りて、建物に向かう。
奥の方に乗船券販売所の看板が見える。
ぼくは妻に平静をよそおい、「何かほかの方法があるんじゃない」と言いながら向かった。


「定期船は出てしまいました。本日はもう出ません」

乗船券売り場の若い女性が顔色ひとつ変えずそう言った。
ああ無常。一瞬、頭が白くぶっ飛んだ。

 

冷静さを保ち、「な、な、なにか方法はありませんか?」と尋ねると
海上タクシーがありますよ。でも……」
「でも……?」
「定員の人数にならないと出発しないので、何時になるかは──」
「えぇ!」
「ここにお名前と携帯の番号を書いてください。いつになるかわからないので、この近くでお待ちください」
「へぇぇぇ。」カリカリカリ


情けなく、名前と電話番号を書いて、近くの椅子に座って待つことにした。

 

「1日1便だったら、これから来る人いないよなぁ」
15分ぐらいがたったころ、ぼくたちはあきらめかけていた。

そこに4、5人の女性グループが来て、近くの椅子に座って、何か話していた。船の手配役の男が声をかけている。

すると名前を呼び始めた。そしてぼくたちの名前も。

奇跡が起きた!

船着場に誘導され、小型船に乗り込む。 
船主が甲板は水がかかると言っていたので船内に入ることにした。船内に6人。後ろの甲板に5人。

船が港を離れると、だんだん波が高くなる。船はスピードをあげると、ガッと船底が固い岩にでもぶつかるような音がした。波の高い地点まで上がると、ふっと落下する。そしてまた船底に衝撃がある。その繰り返し。

妻は涙を流して爆笑していた。さながらディズニーシーのセンター・オブ・ジ・アースのようだと。定期船に乗り遅れなかったら、これも味わえなかっただろう。いい思い出だ。

船は金華山に近づくとスピードを落とし、船の余韻にゆらゆら揺れながら、船を降りた。

祈祷を申しこんだ人たちはクルマが用意されており、先に神社へと行ってしまった。待っていれば次が来ると言われたが、ぼくたちは歩いて黄金山神社を目指すことにした。

海を見下ろしながら、急な坂道を登り、表参道からアプローチした。

さすがに太平洋に浮かぶ島。野生味あふれる大木が生い茂っていた。

御神木 御神木

神社の境内に着く。
まずは御神木にお参り。

巨大な恵比寿・大黒尊像
結構、笑える! 福がありそう!

銭洗所。ご利益ありそうです。
ここで財布のなかにあった小銭を全部洗いました。

御本殿前の御拝殿に参拝し、五百円の御神木に願いごとを書いて奉納。
これは大護摩祈祷でお焚き上げをしてくれるから、きっと願いはかなうでしょう。

御朱印は祈祷受付所でもらえるので向かうと、
その前に鹿!金華山と言えば鹿!

黒い瞳でじっと見つめてくるので、見つめ返したら、威嚇された。周りをよくみると、鹿の餌が百円で売ってた。ぼくを見ていたのは「エサをくれ」ということだったらしい。

怖かったけど、餌をあげました。

祈祷者待合室はお休み所になっていて、ご利益のありそうな絵が展示されていた。


帰りは表参道から船着場に向かう。
本当に清々しい海。

観光タクシーは12時50分発。
来年も、再来年もきっとくると決意しました。

鮎川港でお昼。
エビフライ定食 1.300円。プリプリの海老3匹。うーん、まーんぞく。

せっかくだから鯨の博物館も見た。
マッコウクジラ骨格標本が展示されていた。鯨ってでっかいです!
ちなみに世界最大の鯨は「シロナガスクジラ」体調約30m。

帰りはコバルトライン経由で女川へ。シーパルピア女川に立ち寄り。三陸自動車道で、出来立ての東松島道の駅でお買い物。夕方には仙台に到着し、無事、休日を楽しむことができたのでした。

来年も金華山に来るぞ!と誓ったぼく。

希望

ラーゲリより愛を込めて』という映画を観ました。

 

主人公の山本幡男さんは、第二次世界大戦終戦の混乱期にソ連軍の捕虜としてシベリアに抑留され、日本に帰ることなく亡くなる。


生き別れた家族は希望を捨てず、山本さんの帰りを待ち続ける。

戦争の理不尽さと希望を持ち続けることの尊さを描いた実話に基づく物語です。

1945年8月15日正午、昭和天皇玉音放送によって、日本国民に全面降伏が伝えられ、戦闘行為は停止となりました。しかし、完全に戦争が終わったわけではなく、日本が降伏した後も満州北方領土ソ連軍が侵攻します。それは9月上旬まで続きました。

 

南ではアメリカとの沖縄決戦、広島、長崎への原爆投下、北からはソ連軍の侵攻と、敗戦を受け入れた日本はもうボロボロになっていました。

 

終戦の混乱期に、捕虜としてシベリアに連れて行かれた人々がいました。

映画『ラーゲリより愛を込めて』は極寒の収容所でシベリア開発のために、まさに奴隷のように働かせられた人々の様子をまざまざと描いています。

 

冬には零下40度にもなる凍てつく寒さのなか、わずかな食糧しか与えられず、過酷な労働に倒れてしまう者、極限の状態に気がふれてしまう者、自ら命を断つ者など、とうてい平静さを保つことが困難な世界。

 

そのなかに人間としての尊厳を損なうことなく、生きる希望を持ち続けた山本さんがいました。

日本へ帰るチャンスがありましたが、数人が強制収容所に残されました。
山本さんもそのひとりです。

残された人たちは終戦から実に11年もの間、収容所で重労働を強いられます。これほどの長い時間を犠牲にし、戦争が終わっても本国へ帰れない。こんなことがあったなんて、信じられません。人道的にどうなんだろうと考えさせられるものでした。

 

それだけ、戦争というものは情け容赦のないものなんだと思い知らされます。

 

この映画を観たのは、子どもの頃に北海道に住んでいた母の話を聞いたからです。その頃の日本の北国ではどんなことが起きていたのだろうかと興味を持ち、当時の様子を知りたいと思ったからです。

 

母は宮城県の県北で生まれ、戦時中、父親が出稼ぎで北海道へ渡ることになったため、いっしょに北海道へ渡り、とある炭鉱町で暮らしました。

 

父親は身体が弱かったため、兵隊には取られず郵便局員として働きました。

 

子ども達への愛情が深く、成長を楽しみにして、趣味のカメラで、子どもたちの写真を撮っては、自分で現像していたそうです。

 

母は北海道の炭鉱町の暮らしを「とても楽しかった」と懐かしそうに話します。
周囲のあたたかな人たち、みんなで囲んだ炭鉱飯、夏になれば祭りの夜に響く賑やかな太鼓の音、芳ばしい焼きとうもろこしの匂い、それは美しい思い出に溢れていました。

 

しかし、母がまだ12歳のとき日本が戦争に敗れ、その暮らしは終わりを告げます。
兄弟5人の長女だった母は、幼い兄弟の手をとり、北海道から本土へ引き上げます。思い出の写真を持つこともできず、最低限の荷物だけを持って青函連絡船にのったそうです。

 

樺太から北海道へ引き上げる人、北海道から内地へ引き上げる人。さながら戦争映画で先を争って船に乗り込むワンシーンのように、危機迫る光景が繰り広げられたに違いありません。北海道は必死に本土を目指す人たちで混乱していました。

 

三船殉難事件という悲惨な事件が起きたのもその頃です。


8月18日、ソ連軍が千島列島に攻撃を開始すると、樺太から逃げ帰る3艇の船が爆撃を受け沈没します。1,700人の民間人が亡くなるという悲惨な事件でした。陸地で見ていた人が、子どもかかえた女性が「たすけてください」と叫びながら、やがて沈んでいくのを見たといいます。

 

母が本土を目指していたその時、同じ空の下で、こんなことが起きていたなんて。幼い小さな手を強くにぎって船に乗り込む母を想像すると胸がつぶれそうになるのです。

 

その後、県北に戻った母は、中学を卒業すると働きに出て家族を支えました。

 

このようにして、母の思い出話しがどんな時代だったのかと興味を持ち、映画やWEBでのぞいただけですが、戦争の混乱は多くの人の命と絆を奪っていくのだとあらためて考えさせられました。

 

ぼくが生まれるほんの20数年前のできごとです。母がそれだけ戦禍の近くにいたと思うとぞっとします。ひとつ間違えていたら、ぼくはこの世に生まれてこなかったのかも知れない、とさえ思うのです。

 

サンデーモーニングガザ地区の様子が報道されていました。

炊き出しに殺到する人々が、桶のようなものを持って、手を伸ばしていました。街はこなごなに破壊され、人々は飢餓の危険性が迫っているそうです。

 

コメンテーター、ピースボートの畠山澄子さんが、ガザ近くに住む友人と電話で話をしたと語っていました。


「危険が迫っているから、子どもたちを他の地域に避難させている。しかし、いつかチェンジが来る。希望は捨てない」と話していたと。

サスティナブルを考える

仕事の関係でワインについて調べていました。
今年の推しは、サスティナブルワインということで
オーガニックワインとも違ったもので、もう少し発展させたもの、
というヒントだけでググったりしていましたが、ピンときていませんでした。

 

そんなこんなしている間に激しい地震が来て
あちこち飛び散った部屋を片付けしていたとき
気になった記事を切り抜いていた中から偶然、
1枚の記事を見つけました。

 

その記事の見出しは、
「ジャンシス・ロビンソン ワインリポート」
軽量ボトル、脱炭素の動き
となっていました。

 

アメリカ西海岸ナパ・バレーあたりの取材記事のようです。
ワインのボトルは一般的に750ミリリットル。
重さは400グラムから1キログラムまでと幅があるようですが
重ければ重いほど、製造時や輸送時のカーボンフットプリントが
増えることになるようです。
西海岸で入手可能なボトルは平均重量550グラム。
米国とアルゼンチンの生産者は重いボトルを好む傾向にあり
さらに南仏の主要生産者の中にも重いボトルを使い続けている人がいるということで
消費者も「高級ワインは重いボトル」という固定観念を持ってしまうという
弊害も生まれているということでした。

 

また、そのようなボトルはほとんど自国生産ではないから
輸送による環境負荷も大きいというわけです。

 

こんな風に考えると
ぶどう畑で使用する電気、農薬、燃料
醸造所の燃料や電気、タンクの製造
容器・包装、輸送に至るまで環境負荷について考えるということになります。

 

これは一生産者だけの取り組みだけではなく
それに関わるさまざまな人や業者が関わってくるということになります。
私も仕事で印刷物を大量に納品したりした経験がありますが
ペーパーレスみたいなことは前々から言われていて
それでも書類や資料の山に埋もれながら仕事をしていました。

 

例えば、書類をPDFにしてしまって保存しようとか言っても
紙に慣れている意識や行動はなかなか変えることはできず
結局、プリントして手元に残しておいたりしていたものです。

 

紙をデータにすれば、それで解決というわけではなく
前に見た記事では、
データのクラウド化により肥大したサーバーを冷却するのに
海に沈めて冷却するなんてこともあるようです。
そうなってくると、どこまで行ってもやっぱり環境負荷はかかってしまうのか
と考えてしまいますね。

記事の結びでは
ある生産者が軽量ボトルに変え
浮いた資金をワインの質の向上のために使い
結果、ワインの質は上がり、ガラスの使用量は減り、そしてワインの値段を抑えることができた、と記されていました。

 

最近、流行語のように、SDGsと言われ
あちこちで見聞きすることが多くなりました。
私自身もイメージでしかなかったのですが
もしかしたら、仕事をしていく上で
環境負荷を意識しながら工夫することで
行動や決断は変わっていくのかも知れないな、と思いました。

 

「オレ、エスディージーズやってから」、と声高に叫ぶわけではないですが
自分が生まれて世話になっているこの地球に
少し負荷をかけないようにした方が生きていて気持ちいいのかも知れません。

 

 

近づいてきた

ふと気づくと、この間の投稿から、1ヵ月以上も経ちました。
ここのところの動きを書き残しておきます。


2月の連休明け、家で仕事をしていたら
夕方電話がありました。

先週、相談に行った銀行からです。

電話口は同席していたMさんから。

「上席がお話ししたいことがあるので
このままお電話代わってよろしいですか」と言うので、もしや何か急展開なのか、それとも元々ダメなのか、ドキドキしながら電話を待ちました。

上席の方が電話に出て、丁寧な挨拶のあと言ったのは、

「担当のKが週末、コロナの疑いがありまして、まだ結果は出ていないのですが。ということでお会いしてお客様にご連絡していたところです。発熱したりとか、お加減にお変わりございませんでしょうか?」

思わず「えっ、え〜」と声を出してしまったが、「でも、あれですよね。潜伏期間って、2、3日でしたっけ?連休中特になんともないし・・・」

と、なんとも間抜けなやりとりが続き、
とにかく結論、濃厚接触者には当たらないそうだ、ということらしく
最後は、Mさんが「あといろいろ進めておきますから〜。」ということでした。

 

やれやれ、大丈夫かなと思いきや、その後は、急展開が続きました。
協調融資ということで、公庫に話をしてくれたり
保証協会に事前審査を上げてくれたり
追加の資料の提出をしたりと続きます。

そして、とうとう保証協会から「実施可能」という回答をもらうことができたのです。

ただし、銀行の最終は公庫からの回答と
自己資金で不動産契約を交わすというものでした。

それで、急いで不動産と打ち合わせをして
保証会社の審査を受けるための書類を提出しました。
審査の回答は1週間かかるということだったのですが、
あっさり翌日には回答をいただくことができました。

公庫の方も面談日が決まり
書類も万全にして、何を聞かれても答えられるように準備して
かなり緊張して、その日を迎えました。

朝、家を出たところで電話があり
遅れないようにという電話かな、と思ったのですが
なんと、社員の一人にコロナの陽性反応が出たという連絡でした。
「ど、どーしますか〜、気にされる方は気にされるので、ご連絡した次第です」
とのことで、でもまぁ、家も出ちゃったし
「あ、だ、だいじょうぶですよ・・・・」
「あーそれでは、お待ちしてます」という会話があって
予定通り面談していただくことにしました。

てっきり、上席の厳しそうな方に
厳しく指摘されて、それに答えるのかなと考えていましたが
担当の方に、創業の経緯や計画に対する考え方など確認された程度でした。

 

今は金融機関も、単に数字上のことだけではなく
経営面のあらゆる相談に対応していくことが求められているということで
その担当の方は、広告、特にコピーライティングに関心がある方で
お客様にコピーの提案なんかもしているようでした。
そのため、私の前職の仕事に興味を持っていただいていたようで
広告の話題があったりして、割となごやかな面談になりました。
終わってみて、ちょっと構えすぎていたなと思いました。

この後は、2週間後ぐらいに公庫からよい回答をもらえれば
計画実行ということになります。

民間の銀行の方は
社内の資格試験のために自習室を使った経験のある人で
公庫の方は
広告に関心がある人で
そう意味では、よき理解者とめぐりあったことが
急展開につながったのかも知れません。

 

この間、様子伺いで実家の母に電話したところ
離れて暮らす兄が、コロナにかかり
2週間ほど仕事を休んでいたという事実を聞かされました。

事業計画ももう一歩と近づいたという思いもありますが
やれやれ、コロナも近づいてるな〜、とヒヤヒヤしています。

とりあえず、3回目のワクチン接種を急ぎたいと思ってます。

 

人生は奇妙な冒険

なかなか先に進められないな、と思いつつ
収支計画の見直しを進めていました。
今の仕事も増やしつつ、新規の事業も展開するという意思表明で
組み立て直すと、確かに見え方が違ってきます。
それと、資金繰り計画表に落とし込むことで
お金の流れが見えてきました。
もともと、キャッシュフロー表は独学で作っていたのですが
基本的なフォーマットに基づいて作り直したので
項目も過不足なくできて、すっきりしました。

昨年暮れぐらいから
今の仕事も増やそうと考えていたので
いろいろ動いていたら、少し忙しくなってきて
今月中に提案しなければならないの案件も出てしまったものだから
新規事業に1週間ほど手がつけられなくなっていました。

昨日、もし民間の銀行に融資のお願いにいったらどうなるんだろう。
と、思い立って電話してみました。
すると、担当の方が夕方なら会えるとのことだったので
早速、行って計画を説明してきました。

たまたま、自習室を利用したことがある人で
私の計画に理解を示してくださいました。
想像していたより話は進み
融資金額が大きい場合は、保証協会を通して
自行と公庫の協調融資という方向があると教えていただきました。

とりあえず、一歩進んだかのかなと
思い切って連絡してみてよかったな、と思ったわけです。

 

何故、今まで手堅く、探り探りやってきたのに
思い立ったかと言いますと
漫画の「ジョジョの奇妙な冒険」を読んでいて
気づいたことがあったからなのです。

ジョジョの奇妙な冒険」は
とにかく展開が意外で、スタンドの能力もさることながら
その時、その時の闘いで、相手の動きを読み
自分のスタンドをどう利用して打ち負かすかという
頭を使った戦い方が、いつも「なるほど!」と唸らせてくれます。
それ以外にも魅力を上げるとキリがないので
魅力については、またの機会にしたいと思います。


ジョジョを見ていて感じたのは
例えば、ウルトラマンガッチャマン(かなり古い)など
宇宙や地球を平和を守るためという
みんなのため、みたいな広く大きなものが流れているのですが
ジョジョは違っていて、主人公を取り巻く仲間やスタンド使いなどの
ごくごく身近なところで話が展開していきます。
だから、闘いの最中、通りすがりの人や
まったく関係のない人が、あっさり死んでしまったりするのです。

まぁ、漫画なので、感傷にひたることもなく
どんどん展開していきます。

 

ぼんやり寝る前に考えていたら
私は、結構、幼い頃から周りを気にして育ってきたなと思いました。
クラスの仲間や部活の先輩後輩
仕事で名刺交換した人などなど
妙につながりなどを気にしたりするところがありました。


でも、ジョジョを見ていて、もしかすると、人生って
ごくごく身近なところで出来事が起きているんじゃあないのか
とも思ったのです。

実は自分が見ることができる世界は
ものすごく小さいものなんじゃあないのかと。

だから、あまり世間体を気にしたり
何かで失敗することを恐れすぎてもいけないのじゃあないのかと。
もしかしたら、教科書やマニュアル通りにいかないことや
意外な展開ってゴマンとあるんじゃあないのかと。


でもそれって、自分のオリジナルの物語で
それが奇妙で面白ければ面白いほど、人生って豊かなものなのかなって。

そう考えたら、少し楽になって
もしかしたら失望するかもしれないけれど
新しい展開を楽しめるのかもと思ったのです。
それで動いたの?単純じゃない?と思われるかもしれませんね。
でも、物事を複雑にしているのは、そう考える自分だとも思うのです。

今年は、一年が終わるとき
「最高の一年だったなー」と言える年にしたいと思っています。
それがどんなに奇妙で失敗だらけでも
自分だけの冒険なのだから。

自信

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先日、政策金融公庫に説明に行ってきました。
できるだけ抑えた計画に修正しましたが、
リスクを避けるためにさらにできるだけコンパクトにするようにと言われました。

初めてのことなので、勝手がわからないので
できるだけこの面談で疑問点を解消しようと、今後の進め方など聞けることは聞いてきました。

もともとは自習室を立ち上げるために考えていたので
自習室の事業計画だけがありました。
あわよくば、事業再構築補助金を活用できないかという思惑もあり
広告は社会的な影響を受けやすく競合も多い業種なので
新規事業へチャレンジするというスタンスになっていました。

商工会議所で、新しい計画と
現在行なっている仕事の分も合わせた収支計画を作るように
アドバイスされたので
新事業に、現状の数字を付け足したようになっていました。

広告の仕事は計画生産がしづらいものだけに
私もバカ正直に昨年ベースで数年間数字を入れ
歳をとったらトーンダウンする計画にしていたのです。

公庫の担当者と会話している中で
「もし、経験豊富な広告での融資なら、もう少し融資が通りやすいでしょうね」と言われて
はっと気がつきました。
自分が長く仕事をしていくための選択という側面がある一方、
経済活動を発展させて投資をしていくという側面があるのだということです。

帰ってきて、群馬にいる先輩に電話して報告したところ
もっとやる気を見せないとダメだと言われました。
広告の仕事も増やして、一人ぐらいデザイナーを雇いたいとか
そうして事務所を拡張していくとか
その人脈を生かすことで自習室の集客にもつながるとか
自習室に人が集まるので、その相乗効果が期待できるとか
事業が軌道にのったら、娘に継がせるつもりだとか
発展していくイメージがないと貸す方も貸せないと。

昨年暮れ、以前仕事をさせていただいた方とお会いすると
半年ぐらい先の話をいただいたりして
広告やデザインについても、もう少し動いてみようと考えていたところでもありました。

今の仕事の拡大のためということになると組み立て方がガラッと変わります。
もっと言えば、業種の柱があって、そこから発展していくのなら
どんな形でもいいわけなのです。
現実的な線ばかり考えていて、できるだけ人手をかけないで抑えた計画でしたが
自分が動きやすいように、人も入れて仕事を増やすと考えれば
ひとつの事業になってくるわけです。

見方を変えると同じものが違った見え方になる。
自分の中に、自信があるのかないのか、それによって人の見方は変わるし
できあがる計画も変わる。
なぜ、それに気が付かなかったのか、と反省いたしました。

急いで根本を見直して再び相談に行こうと思います。
どうも、担当者の方にチェックいただいた後に、融資担当という方に面談し
それでチャレンジという流れになるようです。
わからないから自信がなくて、一人で考えるから落ち込んでしまう。
相談できる誰かを持つことは大切なことです。

 

向き合う

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先週、商工会議所に行って、見直し案を説明してきたが
またしても手厳しい指摘を受けました。
それでも、この段階で、公庫に行った方がいいとのことで
今週、単独で行ってくることにしました。

初めて行う事業ということと
手持ち資金を300万円で設定しているため
融資限度額が1,000万円以下、いいところで900万円前後かと思います。
現在の計画が1,500万円程度ですから、1,200万円の借入ということになります。
急いで見直して、内装、備品関係を絞りに絞った案を作りました。
少し貧弱ですが、なんとか借入を1,000万円にする案です。

仕事をしていく選択支としての事業計画ですが
半年以上にもわたって、場所の選定や収支計算、不動産や内装の交渉など続けていると
「やっぱ、無理かもしれない」とか考えてしまいます。
30年以上続けた広告の仕事を辞めて、別の道を探しても
そう世の中はあまくないのだと言われているようにも感じてしまいます。
だったら、そのまま定年まで身体を壊すまで、働けばよかったのでしょうか。
多くの中高年が悩むこと
もしくは、定年を迎えて考えることを、
身を持って体験してしまっているのが今の私です。

今年は、できるだけ多く人に会おうと、そう心に決めました。
気持ちが沈んでくると、動きが止まって、その決心も揺らぎます。
でも、悩んでいても、時間が待ってくれるわけでもなく、
何も変わらないのです。

指摘されると、すごく落ち込みます。
自分が思った方向にいかないと、ため息が出そうになります。
でも、冷静になって、計画書を読み返していると、
「あっ、ここ直せばいいのかも」と気づくこともあります。

こうして、ときどき、ブログを書いていますが
何のために?とも思うのですが、
こうして文章にしてみると、改めて気づくことも多々あります。

そう感じられるのは、
起きた出来事に、そして自分に向き合うのだからだと思うのです。
悩んでいては、向き合うことはできません。
指摘されたら、そこを考えてみる
否定されたら、他の方法を考えてみる
ダメな理由を取り除く

週末、私が住んでいる街では、どんと祭というお焚き上げの行事が
あちこちの神社で催されました。
お世話になった神様のお札やお守り、正月飾りをお焚き上げの炎で燃やし、
この一年の無病息災、家内安全を祈ります。
寒さの中、炎のあたたかさに包まれると心も前向きになれるように気がして
毎年、近所の神社の長い階段を登ります。


まずは、正面から向き合って、次へ進もう。
感情に頭の中を支配されないように気をつけながら。

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物語 探索 関係

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2022年が始まりました。
一年の目標を立てようかとか、今年やりたいことを書き出してみようかとか
そんなことを考えているうちに、10日も過ぎてしまいました。

暮れから「LIFE SHIFT2」を読んで、なるほどなと思ったりしています。
デジタル化やAIの急速な発展によって、人的な仕事が減っていく。
その代わり、人間だからこそできる新しい仕事が生まれ、
そのためのスキルを身につけてステージを変えていく。
何歳になろうと、新しい挑戦を続けていかなくてはならないのだと書かれています。

「物語 探索 関係」は、これからの時代のキーワードらしく
自分自身のこれからの物語を思い描かなくてはならないし
その物語を生き抜くスキルを探索し続けなければならない。
そして、自分の周りや、違う世代の人たちとの関係を大切にしなければならない。
長寿化時代への心構えを、本書では、さまざまな立場の登場人物を通して語りかけてくれます。

今年は、できるだけ多く人に会おう。
年の初めにそう考え、二人の友人に会いました。
同年代の二人は、定年まで会社勤めをし、その後の生活をなんとなく考えていました。
ひとりは結婚式場のカメラマンをしており、
将来は自宅の土地に、自分のカメラスタジオを作りたいと言っていました。
もうひとりは、システム設計をしており、
今はテレワークでほとんど家で仕事をこなしています。
サイドビジネスを始めて、定年になるまでに形にしたいと言っていました。

私は、彼らよりは早く、会社を辞め、次に自分が何をやろうか
3年ほど思考錯誤を繰り返してきました。

自宅でデザインの仕事をしたり、友達の自習室を手伝ったりしてきましたが
今年は自分で自習室を始めようとしています。
来週には、練り直した案を持って、商工会議所に行く予定です。

私たち50代後半世代は、デジタルの黎明期を目の当たりにし
バブル経済とともに終身雇用も崩壊し
人生100年時代、60歳以降も働くのが当たり前になってしまいました。
子どもの頃のこの世代は、もう高齢者だったし
60歳前後で亡くなる人も多かったのです。
でも、今の自分は、少しは衰えてはいるものの、まだまだ若い気持ちでいるわけで
それは幸せなことなのだけれども、
まだまだ勉強し続けなければならないのだろうと覚悟を決めたりしているのです。

成人式の日、駅前ビルを通りかかったとき
北海道の白老町という町の
小さな観光イベントが開催されていました。
北海道の先住民族アイヌの民族博物館や共生公園などがあるようで
物産品には、アイヌの伝統的な柄が施されていました。
以前、友人に誘われて、「アイヌの美しき手仕事」という工芸品展を見に行ったことがあります。
先住民と開拓民の出会いや争い
自分の知らない日本の歴史
工芸品に残されたデザインには丁寧な暮らしぶりが伺えるものでした。
ちょっとそのときの感動が蘇るのを感じて
500円のアイヌ柄のマスキングテープを買いました。

今年は、このアイヌ柄のテープをラベル代わりにノートの端に貼って
ノートを開く度、感動をくれた友人のことや、考えたことや悩んだこと
勉強してもがいたことも思い出せるようにしようと思います。

 

 

ともあり遠方より来る

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遠い街から、友人が訪ねて来てくれました。
彼とは、かれこれ十数年の付き合いになります。
以前勤めていた会社で、中途採用の彼は、転勤で仙台にやってきました。
私とは同い年で、よくいっしょに仕事をしました。
彼のアイデアで、今までやろうと思ってもできなかった仕事やスケールの大きな案件に挑戦したり
大変だったけど充実した日々でした。

 

コロナ感染がやや落ち着いている年末。
また動きが取れなくなるその前に、帰省をしたり、友人たちと過ごそうとする人で
街はあふれかえっていました。
人混みを抜けて予約をいれておいた居酒屋で落ち合いました。

 

ビールで乾杯し、近況について話しました。
会社の理不尽さを嘆いていましたが、
今年一年は納得のいく仕事ができてよかったと言ってくれたのでホッとしました。
2年ぐらい前に会いに来てくれたときには、とても疲弊していました。
しばらくはLINEで会社を嘆くメッセージが届いていましたが、
ようやくそこを抜けて、自分のやるべきこととやりたいことが
ひとつになってきたのだなと感じました。

 

会社は、自分がそこに所属していないと表面的なところしかわかりませんし
中にいると、それが当たり前のように感じてしまいがちです。
人間関係や評価制度、古くからの慣習など、離れて冷静になるとおかしなところに気がつきます。
そこにいくら悩んだり抗っても徒労になることが多いものです。
嫌なら辞めるという選択もあるのです。
それでも私たちは、広告という仕事があり、
お客さまに喜んでもらうこと、新しいことに挑戦すること、
いいものを創ることという機会が与えられていたのは幸運なことでした。
やりがいがあることで苦しい先に喜びが待っているという希望に随分助けられていたのだと思います。

 

彼からは、今携わっている映像製作のプレゼンテーションやスタッフィング、
スタッフ間のコミュニケーションの取り方など興味深い話を聞くことができました。
東京で活躍している人や田舎に移り住んでいるスタッフたちと
場所は離れていても、日々、ZOOMやLINEでやりとりをしていること、
映像やコピーライティングの考え方、こだわり、コンセプトの大切さはとても参考になりました。

 

共感を作り出すということについて、
「おもしろい、楽しい、美味しい、エロい」が大事だと言っていました。
「エロい」というのは、スケベなものということではなくて「艶」なのかも知れませんが、
なんとなく言わんとしていることは理解できたように思います。
今、手伝っている自習室や、今後自分がやろうとしていることについて、
SNSを活用しなくてはならないと思うのですが、そのやり方がどうもしっくり来ていませんでした。
いいヒントをもらったので、早速試して行きたいと思います。

 

朋有り遠方より来る。
論語の一節であるこの言葉は、
「多くの出会いがあっても、趣味が一致しているとか、同じ志で生きている人と出合うチャンスは稀であり、折角出合いがあっても、いろいろの事情で、遠隔の地に住まなければならないことも少なくない。遠い場所から訪ねて来た親友と久しぶりに近況を報告し合ったり、意見を交換したりするのは、人生の大きな楽しみであると同時に、人生そのものを豊かなものにするものだ。」
という教えです。

 

彼のおかげで、そのありがたみに改めて気づかされました。
来年は、多くの人に会い、楽しみと豊かさを手に入れていくことを
ひとつの愉しみにしていきたいと思います。

経済 乗数効果

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18歳以下への10万円相当の給付がようやく始りました。
少しでも早く届けたい、というのが善意ある人の考えだと思いますが、新しい内閣が発足して国会で議論されて、現金とクーポンの支給になりそうでしたが、世論におされるような形で現金一括給付も選択肢にありとひるがえりました。自治体によっては、政府の方針の転換に、案内をすでに郵送した後にも関わらず、再度、一括給付の案内を送り直すなど、職員の時間と印刷物や郵送費が無駄なものとなっています。
発送業務の手間と費用については、予想以上に経費がかかりますね。多くの公務員の方の時間と、多くのお金が無になってしまったことが、本当にもったいないことだと感じました。
10万円給付は、半分の5万円をクーポンで配布すると事務経費に900億もかかるというところから紛糾しました。その後、1200億かかるという話も出て来てしまいました。余談にはなりますが、その議論の間に、アベノマスクの保管費用が6億という話題も浮上し、世間はこれまたびっくりしたわけです。この6億は、昨年8月から今年の3月の8ヵ月の保管費用というのですから、1年に換算すると、9億になるというからこれまた驚きです。介護施設への配布、災害備蓄など必要としているところへの配布と在庫を減らそうとしているようですが、現在のペースだと30年以上かかってしまうようです。気が遠くなりますね。時々、マスクを配った当時の映像が流れますが、口元にちょこんと乗った小さめのマスクをして、記者会見に応じている姿には、苦笑いしか出ません。

さまざまな事情と状況があったとは言え、このような無駄な費用が、もっと有効的に活用されればいいのに、と思ってしまいます。少なくても、本当に生活に困窮している人たちが、助かるようにと・・・。

先日、めざまし8を見ていたとき、デービット・アトキンソンさんが、10万円相当給付についてコメントしていました。
「10万円相当給付について、国会の議論はど素人の話し合いです。900億かかるからということではなく、経済乗数という考え方があって、その経費をかけても、何兆という経済効果が見込まれるのならやるべきだし、そうでなければやるべきではない。これでは、こういう政策が本当に効果があったのか、よい政策だったのかを検証することができない。」
これを聞いて、経済の乗数効果というのを検索してみましたが、難しい計算式で、なかなか理解するのは難しかったのですが、言わんとしていることはわかりました。日本だけでなく、他の国も数々の国難において、さまざまな経済対策を行っており、どのような投資が経済を押し上げる効果があるかは、歴史が物語っています。

いま、自分自身は事業計画の詰めの段階に入っていて、商工会議所や公庫のアドバイスを受けて、予算の絞り込みをしていますが、経済乗数のような考え方が必要だなと感じています。この投資が果たして、将来的な効果を生むのか、効果的な投資とはなにか。こういうことをいろんな角度で考えることが大切なのだと思います。

公庫の担当の方から、先日、電話をいただきました。やはり予算をもう少し抑えたらいいのでは、ということでしたが、私はすぐ申し込みはせず、もう一度見直しているので、それを見てもらいたいと話しました。その時、「複数の視点から見ることが大切ですよ」と言われました。それから数日、内装を見直したり、競合はどのくらい売上があるのか、オペレーションを考え直したりしていますが、頭を悩ませれば悩ますほど、あー、そうか!みたいなことがちょこちょこ出てきます。結構長い時間をかけて練り上げたプランなので、愛着もありますが、まだまだ詰めるべきところ、改善すべきところがあるのかも知れません。単純に損をする、無駄になる、これがいい、これが好き嫌いだけではなく、考え方を学び続けることなんでしょうね。
自分だけの考えに固執せずに、柔軟に考え、柔軟に行動する。目まぐるしく変化するなかで生き抜くコツなのかも知れません。