Flaneur-フラヌール-

50代からのSecond Life

知恵

知恵、この言葉を前に、僕には果たして知恵はあるのだろうか?と考えてみた。

辞書には、道理を判断し処理していく心の働き。筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力とある。
ウィキペディアには、アメリカの心理学者、ロバート・スタンバーグの言葉が紹介されていた。
知恵は、洞察力・判断力・アドバイスする能力を含み、経験と年齢を重ねたことで人生の問題を大きな文脈の中で把握できる能力が、知恵のもつ特有の能力であると論じている、と。

知識を生かすことができて、はじめて知恵と言えるのかも知れない、
と僕は思った。
生かすとは、どういうことかと考えたとき、生かすというその行為自体に、そこにある方向が生まれてくると思う。
生かすべき方向づけともいうべきものが必要となるのだ。

広告をやっていたとき、顧客がそれを漠然と持っていて
それを形にするために、そこに向かって
思考錯誤を繰り返し、その中から選択をし
実現するためにあらゆる手を尽くしていた。

こと自分のこととなったとき、手段はあるものの(あるような気がする)
どこへ向かうべきかが定まっていないのが現実だ。

会社というフレームは、行き先を決めてくれるものであったようで
一個人となってしまうと、途端に吸引力を失くす。
何をするにしても自由な代わりに、何を目指すのかという、
他人からたずねられたときに答えられる言い訳のようなものを持ち合わせなければいけない。
その言い訳は、お金を稼ぎたいからとか、高齢者のためになることだからとか、
地方の活性化になることだからとか、
なんでもいいのだろうけれど、どんなに考えても何か思い当たるものが浮かんでこないのだ。
つまり、行き先が見えないままなので、知恵にまでに至っていないということになるのだろう。

僕はこれまで、人のいい人間だった。
広告という競争の世界で、よくそれなりにやってこられたなぁと思う。
一般的にイメージされるカッコよさやギラギラした感じはなく、
どちらかというと地方で固めの仕事をしているイメージに近い風貌だし、
歳をとったせいもあってあまり欲もなくなってしまっている。
今まで方向を指し示すお客様に恵まれ、
そしてそれを具体化してくれる仲間たちにも恵まれていたのだ。
いま、ポツンと一人になって離れてみると
あの煩雑な日常に確かに組み込まれていた僕がいた。

僕はどんな役割を担っていたのだろうか。
一個の人間としての知恵として考えれば、
お客様のニーズがあり、具現化することで、知識は知恵として昇華していく。
しかし、複数の人がかかわる場合、
ニーズから具現化までを串刺しにして、ぶれないように導いていく
言わば船頭さんのような人が必要になってくる。
僕は、そんな役回りだったのかも知れない。
いっしょの船に乗って短い旅をする仲間たちを
無事に寄港先まで連れていくことが僕の使命だったのかも知れない。

こう考えてみると、知識をたくさん持っているだけでは
事を成すことは容易ではないのがわかる。
まず、向かうべき方向を定める、
そして、共に旅する人たちと喜びも苦しみも分け合い、
到着地にたどりつくことができなければ知恵とは呼べないのだろう。

もしかしたら、天候が荒れて、激しい風や荒波が船を包むかも知れないし、
思わぬアクシデントに見舞われるかも知れない。
そのたび、進路変更を迫られるかも知れない。
それでも、持てるだけの知識と経験で困難を乗り越え、
はずれてしまった航路へと軌道修正し到着地を目指さなくてはならない。

先日、頼まれごとをされてから、昔いっしょに仕事をした人たちに会い、
仕事を引き受けてくれるようお願いして歩いた。
みんな快く引き受けてくれると言ってくれて正直、安心した。

さて、そうなれば、悩んだり迷ったりしている暇はない。
船頭がぶれてしまっては、乗組員を惑わしてしまう。
到着地を目指して、船を進めるだけなのだ。
慌ただしい毎日に押しつぶされそうになりながら、
勢いと熱量で進んできた日々があったけれど、
今は知識と経験を知恵に変えて進んで行きたいと思う。
そして、たどりついたところから
また次の行き先を考えてもいいのかも知れない。

 

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