Flaneur-フラヌール-

50代からのSecond Life

九死に一生

あの時、じっとしていたら
どうなっていたのだろう
そう思う出来事が私にはあります。

 

もうかれこれ25年くらい前のことですが
群馬と長野の両県を担当していた私は
その日、新規のお客様の事業計画の会議があり
長野の佐久というところで打ち合わせをしていました。
そして、夕方までには群馬の下仁田まで行って
集金をしなければなりませんでした。

 

佐久での打ち合わせは
新しい事業を検討するというものであったため
会議も紛糾し、予定していた時間を大幅に超過してしまい
午後の3時を過ぎていました。

まだ、高速道路もできていなかったので
碓氷峠の有料道路経由か
国道254号線で向かうか
どちらも約1時間くらいの道のりです。

 

その時私は
なんとか最短の時間で辿り着き
集金を終わらせたかったのです。
と言うのも、規律が厳しい会社だったので
集金が抜けてしまうと、ミーティングで相当責められてしまいます。

集金先のお客様は
何時でもいいとは言いながら
ふらっと外出してしまうような人でした。

 

その頃は携帯電話もなかったため
2時間おきに会社に定期連絡を入れるというルールがありました。
打ち合わせが終わるとすぐ
電話ボックスをみつけ、会社に連絡を入れて下仁田に向かうことにしました。


営業車に戻ると
後ろの席にるるぶが置いてあったのを見つけ
もしかしたら、どこかに近道があるかもとめくってみました。
るるぶにはドライブマップがあり
その地図を見たところ、ちょうど碓氷峠と254号線の間くらいに
細いけど、道があるのが見えました。
ドライブマップの地図だから
車で走れる道だろう
ここを行けば、早く到着できるかもしれないと思い
その道を選択しました。

 

春も近づいていたので
峠にも雪は残っていませんでした。

山道でしたが車を飛ばしました。
しばらくして峠の頂上らしい場所に差し掛かりました。
すると、なんと、道が5つに分かれていたのです。

それは地図にも描かれていませんでした。
どれか一つが下仁田に続く道であることは間違いないのですが
一体、どれなんだ!
五叉路で車を止め、しばらく考え込んでいると
小さな看板が立っていました。
そこに下仁田と書かれています。
右の道をさしているようです。
ちょっと看板が傾いているのが気にはなったのですが
ハンドルを切りました。

しかし、数10メートル走ると
その道は雪が積もっていました。
冬中、誰も通っていなかったのか
かなり柔らかな雪質です。
ズブズブ、あれ、あれっ、と思い、
車を止め、バックしようとした時
タイヤがスリップし、空回りを始めました。
あれ、あれっ、と、ゆっくりとアクセルをふかし
脱出を試みたのですが、徐々に深みにはまっていきました。

 

やばいなぁ


シートマットをタイヤにかませて
脱出しようともしましたが効きません。
何度やってもやっても車は動く気配がありません。

 

しばらく車の中でラジオを聴きながら
どうしようか考えていましたが名案は浮かぶはずもありませんでした。
なんか、これ、ヘリコプターとか飛んできて救助されたり
しばらく見つからなかったりして
全国ニュースとかなるやつじゃない?
そんな風に考えると、とても恐ろしくなってきました。

時計は午後4時を過ぎていました。

 

暗くなったらお終いだ。
そう思った私は、思い切って車を出て
歩いて五叉路まで戻ることにしました。
程なくして五叉路にたどり着き
周りを見渡してみました。
すると、遠くにちょっと変わった形の
公共の施設のようなものが見えました。

もしかしたら、人がいるかも知れない!


そこから電話できれば、JAFを呼ぶとか
何か手を打てるはずだ!


そう思い、歩きました。
10分ぐらいでそこに着いた時には
足が冷え切って感覚がありません。
正面のドアらしいところを開けようとしましたが
鍵がかかっていました。
あー、ダメだ。諦めかけましたが
建物の裏の方に回り込んでみることにしました。

裏手は一段下がったところに
作業用の車輌があり、その奥に扉が見えました。
近づいていって、扉を開けたところ
なんと扉が開いたのです。

そして、恐る恐る声を出しました。
「すみませーん、どなたかいらっしゃいますかー。」

 

すると、奇跡が起きました。
建物の奥から
作業服を着た男性が現れたのです。

男性は、その日、たまたま建物の点検で来ていて
まもなく作業を終えて帰るところだったそうです。
私は、ことの顛末を説明し助けを求めました。
男性は、裏手に止めてあった
ミニブルトーザーのような作業車のエンジンをかけ
私につかまり立ちをして乗るように指示しました。

 

そして、雪にはまった車のところまで来て
バンパーの下の方にロープをかけると
私に車に入ってハンドルを持つように指示しました。
ぐいぐいという引っ張られる感覚があった後
スポンッっと雪の中から抜けました。
そして、そのまま、五叉路のところまで車を引っ張っていってくれました。

五叉路のところで車から出て
その男性に深々と頭を下げ御礼を言いました。

 

男性が言いました。「これ、動かすとお金かかるんだよね〜」
私は、「お、おいくらぐらいですか」
男性「3,000円かな?」
私、「あーお支払いいたします。」

お金を渡した後、下仁田に行く道を教えてもらいました。


下仁田に着く頃はすっかりあたりは真っ暗
結局、お客様は出掛けていて集金はできず
がっかりしながら会社に電話を入れると
同僚の女の子が脳天気な声で
「全然、連絡入れないで、どーしたのー」
到底、電話では話しきれない内容だったので
「戻ったら話すよ」と言って電話を切りました。

雪の中で車が抜けられなくなった時
じっとしていたら
あの男性がさっさと帰っていたら
一体どーなっていたのか
今だに思い出すたび、ゾッとします。

 

焦りや恐怖は人の判断を狂わせます。
焦って、思いもよらない行動を取ってしまったり
恐ろしさで動くこともできなくなってしまったり
ストレスは脳に働きかけ、筋肉に働きかけます。

いくらネット社会になっても
一生懸命、足を使って営業している人
たくさんの人の命を預かり運転する人
締め切りに追われてもがいている人
そんな人たちが報われてほしいと思います。

 

五叉路ほど複雑な分かれ道はないけれど
道に迷った時は
看板だけを信じてはいけないこと
自然や環境や、自分の直感や
すべてを総合的に判断すること
いつまでも同じ場所にとどまらないこと

生きていく上での大切な知恵を学んだように思います。

 

本日も日々の備忘録のようなブログに

おつきあいいただき、ありがとうございます。

世界の祭典を前に、国際化を考える

子どもの頃は外国人を見ると

驚いていたものですが

今は駅や街中やコンビニなどで見ても、なんとも思わなくなりました。

5年前、訪日外国人は約1000万人でしたが

昨年は約3100万人と3倍以上に増えています。

2020年には東京オリンピックも開催されるし

国際化の波は高波となって押し寄せていますね。

 

ところで見てもなんとも思わなくなったけれど

話しかけられたらどうしましょう?

続きを読む

君が教えてくれたこと

表面を見ているだけでは

何も見えていないのだと

気づかされました。


自閉症の君が教えてくれたこと」

それは、自閉症の作家、東田直樹さんのドキュメンタリー

 

人とのコミュニケーションが取れない自閉症でありながら

タイプライターを模した紙の文字盤を手元に置くと

思っていることを表現する東田さん

 

その一言、一言が

私の考えをひるがえしていきます。

そして、とても純粋で真っ直ぐな言葉に

心が洗われました。

 

東田さんが書いたエッセイ

自閉症の僕が跳びはねる理由」は

東田さんが13歳のとき

自分には知能がある

心があると言いたくても

その手段もないまま

授業についていけない知恵遅れとみなされ

特別支援学校に進路を変えざるをえなくなってしまった

そのときのエッセイです。

 

それまで

多くの健常者は

自閉症者には心がないと思い込んでいましたが

このエッセイがきっかけとなり

多くの人が、はじめて自閉症者の心の内を知ることになりました。


30カ国の言語で翻訳され

自閉症の子どもを持つ多くの人に希望を与えました。

自閉症を持つ親たちは、自閉症者の心の内を知ることで

自分の子どもにも愛情や知性が備わっていることを

信じられるようになったということです。


翻訳をしたのはアイルランドの作家、デェビット・ミッチェルさん

彼もまた、自閉症の子どもがいます。

 

息子が何を考えているのかわからず

絶望していた時に

東田さんのエッセイに出会います。

そこには、息子さんがなぜ、突然、床に頭を撃ちつけるのか

なぜ急にパニックのようになってしまうのか

理解できなかったすべての答えが書いてありました。

 

ミッチェルさんはすぐに翻訳に取り掛かります。

出版されると間もなく

それは他の言語にも翻訳され

世界30カ国に広がって行きました。

 

ドキュメンタリーの中で東田さんに

「13歳の自分にメッセージを送るとしたら」という質問がありました。

はじめ、「ありのままでいい」というメッセージを答えますが

打ち消して答えます。

 

「つらい毎日を送る僕の耳には届かないと思います。

つらい毎日は果てしなく長い

でも、人生は短いという事実を伝えたいです。

当時の僕にとって

時間の経過は果てしなく

いつまでも降りられないブランコに乗っているみたいなものでした。

でも、君が乗っているブランコもいつかは止まる

それまで一生懸命こぎ続ければ

同じ景色も違って見えると

僕は教えてあげたいです。」

 

ミッチェルさんに

アイルランドに招かれた東田さん

ミッチェルさんは自閉症の息子さんと東田さんが

心を通わし、友達になってくれることを期待していたようです。

しかし、食事会の席でも二人は言葉を交わすことはありません。

 

東田さんが帰国する日

お互いの家族がお別れの挨拶をしていたその時

息子さんが東田さんに近づいてきて

握手をします。

 

ミッチェルさんは二人が手を握り合っていることに

大きな喜びを感じ、

「私はいつまでもこの記憶を宝物として持ち続けることでしょう」

と語ります。


しあわせを自分の尺度でとらえようとしている自分がいます。

私の考えや気持ちや感情をひるがえしていったのは

限られた常識に囚われた目で物事を見ることで

いかに自分の世界を狭めているかに気付かされたからなのだと思います。

 

物語はこんな言葉で締めくくられています。

「僕たちは可哀想だとか気の毒だとか思われたいわけではありません。

ただみんなといっしょに生きていたいのです。

みんなの未来とぼくたちの未来がどうか同じ場所にありますように。」

 

このドキュメンタリーを届けてくれた東田さん

ディレクターの丸山さんをはじめとするスタッフの皆様

そして、いつも東田さんに寄り添うお母さん

本当にありがとうございます。

 

本日も日々の備忘録のようなブログに

おつきあいいただき、ありがとうございます。

3.11

こんなことを考えてしまったことを

本当に申し訳なくて

この日が来るたび、胸が痛みます。

 

8年前のその日

私は身体も心も悲鳴をあげる程

忙しく働いていました。

 

ひとつのプロジェクトチームをまとめ

複数の案件を進めるとともに

それとは別に、とあるお客様の周年記念誌を進めていました。

その他にも、年度末が迫る中、さまざまな案件を

3月末までに完了させなければならず

毎日が時間に追われていました。

 

前日、朝方まで仕事をしたため

起きることができず、少し遅れて出勤しました。

その間もチームの仲間が案件を進めています。

起きてすぐ、何も食べず会社に向かいました。

 

すでに携帯にはいくつかのメールと電話が私を急かしていました。

会社に着くとすぐに、あちこちに電話をかけ

次から次へと書類をまとめ処理していきました。

 

みるみる時間は過ぎていきます。

15時にアポイントがあり

それが終わったら、おにぎりくらい食べよう

そう思うものの、次から次へと電話が来て、メールが来て

アポの時間も怪しくなって来ました。

 

15分前、もー出なきゃ、間に合わない!

書類を束ねてカバンを持ち、立ち上がったその時

凄まじい揺れが私を、そしてビル全体を襲いました。

 

机の上の書類やパソコンが次から次へと崩れ落ちていきます。

背の高いキャビネットが倒れ

パソコンのディスプレイをなぎ倒しました。

みんな思い思いに安全な場所を探して社内を動き回ります。

 

揺れは途中からエンジンがかかったように激しさを増しました。

もしかしたら、ビルが崩れ落ちるのか、そんな思いがよぎりました。

フロアの向こうで、倒れているキャビネットとデスクの間に挟まっている人がいます。

私はデスクの上を乗り越えて近づき、キャビネットを持ち上げました。

中の書類が落ちたことで、軽くなって

持ち上げることができたのがラッキーでした。

 

そこから窓の方を見ると、普段は開いていない避難窓が

外側にブラブラと開いていました。

6階から、その窓が落ちてしまったら大変なことになる

そう思いブラインドの紐を取手に巻きつけ縛り付けました。

そして、次に逃げ道を確保しなくてはと

非常口の扉を開けた時、ようやく揺れがおさまりました。

 

外に出るべきか、どうなのか社内の人と顔を見合わせ

様子を伺いながら、恐る恐る非常階段を降りました。

外は騒然として、あちこちで人が佇んでいて

信号も機能していません。

会社の人たちと相談したところ

取引先も仕事をしている状況ではないということで

まずは戸締りをして帰宅することにしました。

 

私は、会社から比較的近いマンションに住んでいましたので

程なくマンションに着き、階段を使って自宅に辿り着きました。

部屋の中は、本棚も食器もタンスも足の踏み場もないくらい

メチャクチャです。

呆然と佇んでいた時

ちょうど妻もパート先から自宅に戻ってきました。

 

まずは近所の中学校に避難することにしました。

その時、朝から何も食べていなかったことに気づき

柿の種の小袋をポケットに入れて部屋を出ました。

高校生だった娘にメールしたところ

奇跡的に通じて、私たち家族は中学校で無事に落ち合うことができたのです。

 

中学校ではラジオを流していて

津波が沿岸の地区を襲い住民が200人以上、海岸に打ち上げられているとか

コンビナートが炎上したとか

報じています。

何が起きたの?何が起きてるの?

実感のないまま、体育館のパイプ椅子に座っていました。

 

やがて夜になり

多くの人が体育館に避難していました。

ストーブのわずかな暖かさを

老人や子どもに譲るようにして座り

時折、余震が体育館の窓や吊り上げているバスケットゴールを揺らし

皆がおびえていました。

 

ポケットの柿の種に気づき

空腹に耐えられなくなった私は

隠れるように、ポリポリと音を鳴らさないように食べてしのぎました。

 

寒さと空腹と

いつまた揺れるかも知れない恐怖心の中

眠気が襲って来ました。

しかし、それは連日の疲労から解放された

妙な気持ち良さをともなっていました。

私の心に浮かんできたのは

「もしかしたら

神さまが、私に休息を与えてくださったのかもしれない」という思いでした。

ひととき、次の日のことを考えず眠りました。

 

これが、後々、後悔の思いを生み出します。

 

翌週から、また忙しい日々がやってきました。

会社や自宅の片付け

全営業マンの3カ月の見込みをまとめ

震災による損失、お客様の状況

出来る限り詳細に、本社に報告することになりました。

また、自分の仕掛かっていた案件が年度末までに間に合うのか

それとも、間に合わなければ経費関係はどうなるのか

お客様との打ち合わせもしなければなりません。

 

沿岸部も担当していた私は

お客様との連絡も取れず、グーグルの安否情報などで

かすかに生存を確認するのみ

お見舞いに行けたのは約1カ月後になってしまいました。

 

よく晴れた日、国道を走り向かいました。

沿岸に近づくとアスファルトがめくれ上がっていました。

町の入り口の橋は津波で落ちてしまい

自衛隊が作ってくれた仮設の橋がかかっていました。

病院もスーパーも4階あたりまで窓がなくなっていて

あちこちに車両が泥まみれで突っ込んだまま放置され

小さな町が津波に飲み込まれた様子を物語っています。

 

1日かけてお客様を見舞いました。

そこで耳にした壮絶な出来事

 

グレーの壁のような津波が町を襲う様子

市場の屋上に避難したところに引き波が来て

たくさんの人が海に流されていくのを目の当たりにした人

避難していた建物から目の前の道路を見ていたら

歩いていた人や車が

次々と津波に巻き込まれていくのを目撃した人

水もなく、わずかな食物を分け合った人たち

見舞いの言葉も出なくなって

瞼が熱くなってしまいました。

 

それなのに、私は、いっときでも

「よっかった〜、解放された〜」と

「これは神さまが与えてくれたのだ」と思ってしまいました。

 

確かに、あの時は、自分のできることを精一杯したのだと思うのですが

3.11が来るたび

被災の人たちに何の力にもなれなかった

そして、一瞬でも「よかった」なんて思ってしまった自分が

情けない気持ちになってしまいます。

 

沿岸部のお客様と話をしたとき

「忘れられるのが一番辛いんだよね」と言っていました。

せめて、私ができること

あの日のこと、あの日失ってしまったものを

忘れないで生きていくことだと思います。

 

今日は、3.11

あの日、亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに

今も辛い生活を余儀なくされている方々の暮らしが

少しでも良くなりますように願います。

 

本日も日々の備忘録のようなブログに

おつきあいいただき、ありがとうございます。

ウォームアップ

気温15度につられて
ひさしぶりに広瀬川沿いをジョギングしました。
ゆっくり、ゆっくりと5キロぐらい
これから続けていくためのウォームアップです。
 
昨年の夏は、猛暑でしたが
毎日、毎日、10キロ、川沿いを走り続けました。
熱中症にならないように
水を入れたペットボトルを凍らせておいて
タオルに巻いて、片手に持って
水分補給しながら走りました。
 
なんで、そんなに意地になって走ったのかというと
長い期間、仕事が忙しすぎて
机に座っている時間が半端なく長く
そのせいで、足腰の筋肉が落ちてしまって
細くなってしまったようだったので
何とかして取り戻したくて走り続けました。
 
高校生の時は
1年に一度、校内マラソン大会というのがあって
野球部の私は1年生のときに学年第3位
2年生のときには第2位
そして、3年生のときには
ついに陸上部員をおさえて学年で1位になることができました。
(総体も終わっていたので
陸上部員も部活やってなかったから
1位になれたのだと思いますが・・・)
 
だから、走ることには自信があったのですが
昨年、走り始めたときには
10キロ走るのに1時間以上かかりました。
しかも、足はもたつき、膝は痛いは
呼吸も苦しくて苦しくて
途中で歩いてしまうほどです。
 
海方面から川をのぼって来る風が向かい風となり
なかなかスピードも乗りません。
いくつか橋があって、8キロぐらい走ると
河原に整備されたトラックのような場所があります。
 
夕方になると
中学生くらいの陸上クラブが走っています。
私の脇を男子も女子もスイスイ抜いていきます。
 
くっ、くそ〜!
 
休みの日には
ハーフマラソンのTシャツを着た
太腿がっちりの中高年が颯爽に走っています。
当然、私を抜き去っていきます。
 
くっ、くそ〜!
 
毎日がこの繰り返しでしたが
8月になると、1時間をきれるようになり
やがて50分を切ることができるようになりました。
いつのまにか、顔や腕は真っ黒に焼けていました。
 
秋になって、ヨガをやるようになり
ある資格に挑戦しようとして勉強をはじめ
そして寒くもなってきたので
ジョギングはしばらく休むことにしました。
 
ヨガで
ウォームアップの重要性を教わりました。
初めに体幹や大腿などの大きな筋肉を動かすことによって
身体をあたためます。
ストレッチは関節の可動域を広げることなので
身体が温まってからの方が有効的だし
怪我を防ぐことにもなります。
 
ウォームアップは単純な動作
例えば、キャット&カウや
太陽礼拝のアドー・ムカー・シュヴァーナ・アーサナ
プランクポーズを繰り返し行ったりして
身体を温めていきます。
 
ヨガのいいところは
きれいなポーズをとろうとか
競争の意識がないところです。
自分の身体が今このとき
あ〜、ちょっと痛いな、もうちょっと深められるかな、
そう自分と向き合い、気づき
少しづつ前進していくことです。
 
そんなことを考えながら
いきなり無理はいけないと
膝の感じやアキレス腱がちゃんと伸びているか
呼吸も走るリズムに合わせて
ゆっくりゆっくり走りました。
帰ってきてシャワーを浴びて
昼ごはんを食べていたら
郵便が届きました。
 
挑戦した資格試験の結果通知でした。
やったー!合格だー!
思わず顔がほころび
妻と娘に自慢してみせました。
 
長い長い冬が終わりかけようとしています。
私の毎日にも
少しづつ春が近づいてきたようです。
 

本日も日々の備忘録のようなブログに

おつきあいいただき、ありがとうございます。

Forgiveness

自分の悩みは

「人をゆるせない」

ということでした。

とは言っても、それほど人のことを嫌いになるわけではないし

どちらかというと、人に対してはやさしい方だと思います。

 

でも、一度でも、その人の嫌なところを見てしまうと

その人と距離を置いてしまいます。

だからと言って、ものすごく、嫌いなわけでもなく

意思表示をすることはないので誰も傷つけることもないのですが

ただただ、自分の世界に閉じこもり

それでいいと思ってしまうのです。

そして、今まで一度引いてしまったその線引きは

二度と変わることはありませんでした。

 

けれども、長く生きていると

本当に心をゆるせる空間は

とても狭い世界になってしまっていました。

 

先日、12年前に出会った「鏡の法則」という本を読み返したのですが

物語の最後に、経営コンサルタントの矢口さんが

主婦の秋山さんに、ファックスを送ります。

 

12年前は、ファックスの中身まではあまり気にしていませんでした。

 

苦難を乗り越えた秋山さんへのあたたかい言葉とともに

数冊の本を紹介しています。

 

その中で、精神医学者、ジェラルド・G・ジャンポルスキーが著した

「ゆるすということ」という本が紹介されていて

気になりました。

 

翌日、本屋で探してみたところ

それほど厚くない文庫本を見つけました。

2006年6月に初版が発刊され

2018年4月に29刷となっていましたので

相当多くの人々に読まれてきたようです。

 

その本のとなりに、もう一冊、同じ著者の

「愛とは、怖れを手ばなすこと」という本がありました。

手にとってみると

表紙に、「29か国で400万部突破のベストセラーが、新訳で登場!」

と記されています。

 

どちらも聞いたこともなかったのに

これほどの人が読んでいるという驚きで

迷わず購入して帰りました。

 

序文にこう書かれていました。

「この本がどのようにあなたの手元に届いたのかは

あなたしか知りません。しかし、私は断言します。

あなたがこの本を手にしているのは、偶然ではないと。

この本は、まちがいなく神があなたに届けてくださったものです。

それが神のやり方なのです。

たとえば、あなたが何かに悩んで答えや助けを求め

宇宙に呼びかけたとします。

そんなとき、神はあなたに知ってほしいことを

こんなかたちで伝えてきます。」

 

その言葉に吸い込まれるように

2冊を一気に読んでしまいました。

かなり平易な言葉で書かれているので

ともすると、大事なことを見逃してしまうかも知れません。

 

冒頭に書いた私の悩みは

「ゆるさないということ」として

「エゴ」と表現されていました。

 

そして、

「ゆるさないという思いは、心に穴を開ける」とも。

 

このような悩みがなぜつきまとうのだろうかと考えたとき

私の場合

両親のことがモヤモヤ浮かんできます。

 

3人兄弟の真ん中で

一人だけ幼稚園にも行かせてもらえなかった私は

幼い頃、一人で家にいたようです。

周りは、田んぼだらけで

近所に同じ年頃の子どももおらず

誰かと遊んだという記憶もほとんどありません。

 

小学校になった頃に漫画が描きたくなって

漫画雑誌に応募しようと試み

ケント紙に鉛筆で下書きをして

インクで一生懸命に描いたのですが

親父にそれを見てもらったところ

「どこかで見たような漫画だな」と言われて

思いっきりがっかりした覚えがあります。

 

だからと言って、ひねくれたり恨んだり

親が嫌いになったということもないのですが

大人になってからも思い出す度

なんとなく寂しいような、そんな気持ちになります。

 

なんでなんだろうな?

なんで幼稚園に行かせてくれなかったのかな、とか

絵やストーリーがイマイチでも

なんで「よく描いたな」とか言ってくれなかったのかな、とか

どこかでゆるせない気持ちがあるのでしょうね。

 

長い人生の中で、時々、何かがチグハグに感じることがあるので

私の「人をゆるせない」という思いが関係しているのだと思います。

 

2冊目の「愛とは、怖れを手ばなすこと」には

よりよく生きるための12のレッスンとその進め方が記されています。

 

名刺サイズのカードを12枚作って持ち歩き

毎日、1レッスン、ひとつずつやってみることにしました。

朝、瞑想するとき、心の中で思い

眠るときに、一日を振り還るようにします。

 

今にしてみると子どもの頃のことも

家が貧しくて仕方なかったんだよな、とか

親だって完璧な人間じゃないし

ちょっと口を滑らせることもあるよな、とか思うのですが

それにもまして

何ものにもとらわれない

安らかな心に向き合えるとしたら

それはとても素敵なことだと思うのです。

 

もしも、強烈な記憶ではないんだけれども

なんとなく心に引っかかってしまうようなことがある人がいたら

もしくはひどく傷つく出来事があって

それがもとで足踏みをしてしまうことがあったとしたら

そんな人に

いつかこんな本に出会ってほしいな、と思います。

 

本日も日々の備忘録のようなブログに

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鏡の法則

12年前、会社を辞め

独立した後輩がいます。

 

その頃の私たちは

いろんな企画をして

自分たちで営業して

その成果を讃えあいました。

歳下ですが、しっかりして

とても明るくていいやつです。

 

よくいっしょに昼飯を食べに行きました。

会社の近くの定食屋で話をしながら食べました。

いつしか彼は独立の夢を語り始めました。

同じ会社の私に言えば

話しが広まってしまうかも知れないのに。

でも、私は誰にも言わず

頼もしい仲間が一人いなくなってしまうのではないかという

寂しさを感じながらも

彼の夢を応援してあげたいと思うようになりました。

 

あれから12年が過ぎて

彼は立派な起業家になり忙しく活動しています。

そんな彼が最近の私を心配してくれて

ある勉強会に誘ってくれました。

 

昨日の夜、地元の経営者が集まる定例会です。

皆んな熱心で

それでいて、成功も失敗も包みかくさず

そしてお互いをリスペクトしている雰囲気があって

とてもいい勉強会でした。

 

その勉強会の中盤

はじめて参加する私は

皆さんの前で彼から紹介を受けました。

彼の紹介はとても雄弁で

私との思い出を交えながらユーモアにあふれ

会場がとても和やかになりました。

対照的に、人前で話をするのが苦手で、あがり症な私は

何を話そうか考えて臨んでみたものの

やっぱり後半ボロボロになってしまいました。

 

彼が私の紹介の時に

12年前のことを話しました。

それは、「鏡の法則」という1冊の本のことでした。

 

その日、「いい本がありましたよ。読んでみてください」と言って

彼はいつものように私を昼飯に誘いました。

 

定食屋で注文を済ませ

差し出された本は、100ページにも満たない薄い本です。

しかも、後半は解説になっていて

前半には、ある主婦のエピソードが綴られているだけです。

その前半部分を定食が来るまでの間に読みました。

イジメを受けている子どもを思い悩む主婦

なんとか解決を望む主婦が

とある経営コンサルタントと電話でやり取りするだけの

ショートストーリーです。

日常のどこにでもあるようなお話しでしたが

大の大人の私は、こともあろうに

定食屋で号泣してしまったのです。

 

ちょうど、その日の勉強会の第1部のテーマは

「人は鏡、万象はわが師」でした。

彼は本の中身までは語りませんでしたが

定食屋で号泣した私を「感受性の豊かな人」と紹介してくれました。

 

私は、挨拶の後半は

彼が心配してくれてこの場に引っ張りだしてくれたこと

その感謝の気持ちを言うつもりだったのですが

前述のようにしどろもどろになって

中途半端に挨拶をしめてしまいました。

 

勉強会はとても有意義で

皆さんと挨拶をし声をかけていただきました。

帰り道、心の中で彼に感謝しました。

 

12年前、彼に教えてもらった「鏡の法則

本棚から引っ張り出してきて読み返してみました。

読み進めるうちに、また涙がこぼれてしまいました。

 

本の中には、「ゆるす」ということを

思うだけではなく、実際の行動として起こすこと

そして、現状は変えていけるということが

わかりやすく書かれています。

 

「あなたの人生の現実は

あなたの心が映し出した鏡」

 

身の周りで起こっていることは

自分さえも忘れてしまうような

ほんの小さな思いを映し出しているのだそうです。

読み返すと、ふとよみがえります。

もうどうしようもないこと

でも、ずっと心に引っかかっていること

 

私は今、幸せなんだろうか?

満たされないものがあるとすれば

恐らく、12年前、感動してわかったように感じていたのですが

具体的なレッスンが足りなかったのかも知れません。

 

彼にも多くの悩みがありました。

それを乗り越えて、今があります。

学びを現実に変えていく強さがあります。

 

どんなに苦しくても旅立つ勇気

そして、時を経て、手にするものの大きさ

それはきっと歩いた者にしかわからない夢という名の道なのでしょう。

 

本日も日々の備忘録のようなブログに

おつきあいいただき、ありがとうございます。

ホッカイロの女の子

年の瀬も押し迫った函館駅の待ち合い室で

その日、私はガタガタ震えていました。

 

社会人2年目ぐらいの時のこと

かれこれ27、8年ぐらい前のことです。

東北六県を営業テリトリーにしていた会社で

私は青森や岩手を担当していました。

なぜか、1軒だけ函館のお客様があって

私が担当になってしまいました。

 

そのお客様は湯の川温泉の旅館でしたが

社長さんは地元の名主で

競走馬を持っていたり、地元でいろんな役をやっていて

地元の人からも、当然、旅館の人たちからも一目置かれるような人でした。

表情は固く、顔は笑っていなくて、ちょっとこわいタイプです。

 

そこの女将さんがよく連絡をくれました。

 

そして、その時も・・・

 

年の暮れ、あと半月もすれば今年も終わる

そう考え始めていた頃

「来年は改装を考えている

仕事納めの後なら、社長もいるから

函館に来て、話をしなさいよ」

女将さんからでした。

 

若い私はどう立ち回ったらいいのかわからず

年が明けてしまったら、いろいろ忙しいんだろうな、とか考えて

仕事納めの翌日に出発する約束をしました。

 

慌ただしく過ぎる中

参考になるような資料を集めて準備を進めていました。

ところが仕事納めは明日というところで

風邪を引いてしまったのです。

でも、あとちょっとだからと我慢していました。

そして、仕事納めとなり納会があって

納会は早々に切上げて寝たのですが

朝起きると熱はあるし、最悪のコンディションになっていました。

 

函館行きの電車は夜の11時頃出発

寝台の夜行で朝6時くらいに着きます。

出発までは寝て、電車でも寝ればなんとかなると思ったのですが

乗り過ごしてしまうのが怖くて、電車ではよく眠れませんでした。

だって乗り過ごしたら札幌まで行ってしまいます。

 

早朝の函館

体調が良ければ、駅に隣接する市場にでも行って

実家に海産物でも送るとか

海鮮丼の朝メシというところなのでしょうが

熱でボーっとしている私は

とにかく暖を取らなければと

駅の待ち合い室でじっとしていることにしました。

 

今は立派になっている函館駅ですが

当時は小さな駅舎で、確か木造だったのではないかと記憶しています。

改札を出ると、すぐ待ち合い室があり

そこに石油ストーブがあって

外と直結する開閉式のドアは

人が出入りする度、せっかくあったまった空気を

外の冷たい空気と入れ替えます。

外は粉雪が舞っていました。

 

私はできるだけ石油ストーブの近くに座りましたが

人が出入りする度、冷たい空気にさらされていました。

だんだん意識が朦朧としてきて

資料でいっぱいのカバンにもたれかかるようにして

身体を丸め目を閉じていました。

待合室が暖かくなると眠くなり

人が出入りすると目が覚め

眠りの境界線を彷徨い、どっちにも行けず苦しんでいました。

 

苦しくて、だんだん身体が横倒しになっていきました。

 

しばらくその状態のまま震えていると

「この人、かわいそう」

女の子の声がしました。

 

その声がする方に顔を向け

まぶたを開けようとしましたが

ぼんやりしか開けられませんでした。

小学生くらいの女の子がお母さんらしき人と

手をつないで私の前に立っているようです。

 

すると、その子は

「これ、使って」と

私の手に、ホッカイロを握らせてくれました。

 

「あっ、あったかい」

その時の私は、ホッカイロの温もりがありがたくて

たちまち深い眠りの中に落ちていきました。

 

しばらくして目を覚ますと

私は胸の前でホッカイロを握りしめていました。

女の子の姿はありませんでした。

「ありがとう、も言えなかったな」そう思いました。

 

短い時間でしたが深く眠れたおかげで

少し元気が出てきました。

外は雪がやんでいました。

近くであたたかい蕎麦をすすり、チンチン電車に乗り

旅館を目指し、無事、打ち合わせをすることができました。

 

帰りの電車の中は

ふるさとに帰る人でいっぱいで

なんとなく一年を無事終えられた安心感で溢れているようでした。

そんな中、ついさっき、ようやく仕事を終えた

スーツ姿の私は

左手に海を眺めながら

ホッカイロをくれた女の子のことを思い出していました。

 

見知らぬ街でも、こんなこともあるんだな

そう考えると、ホッカイロの温もりがよみがえってくるようです。

ガタゴトと揺れる心地よいリズムと暖かな車内の中

いつのまにか、深い眠りに包まれていました。

 

ホッカイロの女の子

もしかして雪の精だったのではないですか?

つらかったけど、北の国で人の暖かさに触れ

幸せな思いをしました。

本当に、ありがとう。

 

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Rock’n Rollをしてみたい!

自主コンのパンフレットには

1ページづつ、バンド紹介が割り当てられていました。

 

急遽結成した「LONELY  HEART’S  CLUB  BAND」は

特になんのポリシーもなかったので

他のバンドと違ったページにしたい、というだけで

私の直筆で、思いつくまま書いた文章と

ペンギンがシンバルを持っている写真を貼り付けたものでした。

 

ちなみに、本日のタイトルの

「Rock’n  Rollをしてみたい!」というのは

サークルの夏合宿の出し物で即興でやった曲

後輩をバックバンドにして

ワンコードだけで、ひたすら歌いまくると言うか連呼する

「Rock’n  Rollをしてみたい!」という曲のタイトルです。

結構、受けました。

サークルの飲み会なんかで

みんなが思い出して唄えるくらい・・・です。

 

懐かしかったので

自主コンのパンフレットに書きなぐったコピーを書きます。

 

 

LONELY  HEART’S  CLUB  BAND

ーRock’n  Rollをしてみたい!ー

 

音楽の“お”の字も知らず、ただひたすら情熱だけでやってた頃が懐かしい。

ステージに立つ度に緊張し、『よし やろうぜ‼︎』と手を重ね

肩を叩きあってた頃

自分たちの前のバンドに『やられた⁉︎』と自信をなくしたこともあった。

何にも知らず、もちろん技だってもっちゃいない。

音楽はこうだ、バンドってこんなもんだなんて

酒の肴に語り明かした夜

今じゃ、あんなにマジな自分を思い出すのさえ恥ずかしい。

あの頃、周りをみたところで、よくわからなかった。

それでも年上の人たちは、みんなでっかく見えた。

俺らもあんなスケールの大きなバンドになるんだと、

眉間にシワよせて、お気に入りのドゥビーのフレーズを

コピったりしたもんだった。

自分の作った曲は最高だなんて信じながら

ステージで発表する度に、落ち込んだこともよくあった。

一晩中かかってコピった曲も

本番じゃあがっちまって失敗しちまったこともある。

バンドやることさえ、わずらわしい時もあった。

いくつかの夏が来て、冬の寒さに耐えて、曜日感覚失くして

遊んだ先輩は、仕事でこの街にはもういない。

大学時代、アメリカンロックに狂ったやつは

やっぱりアメリカンロックのバンドでギターを弾いてる。

たくさん、バンドができて、消えて、みんなそれぞれに成長したんだ。

音楽で知り合った友達は、能天気なやつらばかり

又、夜を忘れて飲んでみてぇ。

俺はというと、情熱も消えて

夜の巷でカラオケ唄ってるオヤジとあんまし、かわんないみたい。

でも、いつの間にか忘れてた

自分の中の大好きな音楽みたいなもの思い出してる。

それは、きっと楽しむってこと。

バンドのメンバー、今思い出すと、あの頃は

ただ集まったから、何かやる?って感じ。

音楽があるから集まったわけじゃない。

遊んでた仲間で始めたのが音楽だっただけ。

今さらって気もなきにしもあらずだけど、気にしない。

楽しまなくちゃ。

それが、何より自分の中の音楽を大切にすることだっつたね。

 

平成も終わろうとしているのに

・・・・・なんとも昭和な学生ですね。

くだらない内容ですみませんでした。

 

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LONELY HEART’S CLUB BAND

本棚がいっぱいになってきたので

映画やコンサートのパンフレットを処分しようとしていたら

KUWATA BANDのコンサートパンフの間から

コピーで作った手作りのパンフレットが出てきました。

 

それは

もうかれこれ30年くらい前

大学4年生の卒業間近の冬のことでした。

 

私が所属するバンドサークルは

冬になると、いくつかのバンドが集まって

小さなホールを借り切って自主コンをやるのが恒例でした。

 

卒演ではサークル全体で打ち上げをし

そして、自主コンでは、気の合う先輩と後輩が組んで

卒業していく4年生を惜しみながら

盛り上がります。

 

大学時代の私は、ほとんど初心者だけで

オリジナルに挑戦するという暴挙に出てしまい

下手くそで、音楽を楽しむなんてレベルではなかったのです。

それでもメンバーは愛着を持ってくれて

4年生までなんとか続きました。

出来上がった曲は本当に赤面してしまうような曲ばかりでしたが・・・

 

ドラムをやっていたヒデオくんは

青森出身のめちゃくちゃいい加減なやつでしたが

なぜか気が合い、下宿に幾度となく泊まらせてもらって

時間のある限り遊んでいました。

 

そのヒデオくんが

バイト先で知り合った女の子と付き合い

速攻で子どもを授かってしまいました。

それは4年生の夏になる頃でした。

 

そうしたら

「学生さんは気楽でいいよな〜」などと言い始め

学校にも出て来なくなり

さらにバイトに熱をいれるようになり

とにかく稼ぎまくっていました。

当然、バンドの練習にも、サークルにも出てこなくなってしまいました。

 

そのため、バンドは最後の学園祭には出られなくなり

卒業演奏会というラストステージには

後輩にドラムを叩いてもらって

なんとか締めくくることができました。

 

ただ、本当の最後の最後、自主コンシーズンには

活動することができませんでした。

 

その頃、サザンオールスターズが活動休止して

一時的に桑田佳祐さんが結成した「KUWATA  BAND」が

アルバムを出し全国ツアーを行なっていました。

コンサートを見にいった私は、衝撃を受けました。

私は急造で、サークルの仲間に無理を言ってバンドを作り

自主コンシーズンギリギリでまぜていただきました。

 

それが

「LONELY  HEART’S. CLUB. BAND」というバンドでした。

4曲だけ歌いました。

なんとなく雰囲気だけ、桑田佳祐さんに成り切っていました。

 

おかげで心置きなく学生時代を締めくくることができました。

 

ヒデオくんとは、その後、会うことはなく

毎年、年賀状だけのやり取りが続きました。

家族と楽しそうに笑う写真

子どもが早くできたので

そのうち年賀状の写真には孫が登場するようになりました。

孫と遊んだり、バスケットの試合を応援しに行ったり

とても幸せそうです。

 

ただ、今年は年賀状は届きませんでした。

年賀状もどーかなー、みたいな風潮もあるなかで

私も最小限しか出さなかったので仕方ありません。

もうつながりはなくなるのかな・・・

 

特にわだかまりもなにもないのですが

ヒデオくんにもしも会うことが出来たら

ここに書いた学生時代の最後のことを伝えたいと思います。

大学1年からずっと、一緒に遊んでたけど

最後は別々だったから、お互いが知らない時間があったので

そんな話しもしたいかなと。

 

ちなみに、私の大学時代を締めくくった曲は

KUWATA BANDの名曲「スキップビート」

 

♪ スケベー ♪ スケベー ♪ スケベー

ヒデオくんに捧げる懐かしき名曲です。

 

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ホ・オポノポノ

ちょっと笑っちゃうような響きがある「ホ・オポノポ」
これは、数百年前も前から
ハワイに伝わる問題解決の方法のことなのです。
 
家族でお世話になっている通称・丸ちゃんというお医者さんの
待合い室で見つけた本「心が楽になる ホ・オポノポノの教え」
ハレアカラ・ヒューレンという
帽子をかぶった優しそうなおじさんの本です。
 
さらに、丸ちゃんが、ホ・オポノポノダイアリーを使っていたので
とても興味を持ってしまい
本を購入して読んでみました。

 

人が思うように生きられないのは
潜在意識の中にある記憶が原因であり
この記憶を消去することで
大いなる自然、命の源、宇宙からのインスピレーションが届き
そのインスピレーションに従って生きることで
完璧な状態で物事が起こると書かれています。
 
今まで潜在意識というと
なんとなく自分の奥底にある意識という認識でいたのですが
ここでは、
「自分が経験したことだけでなく、世界が創生されてからの
すべての記憶が蓄積されたもの」と書かれていました。
 
辛い記憶はトラウマに、よい記憶は執着にとなって
私たちが正しい判断をすることを妨げているとのこと。
 
例えば、病気になるというのは
はるか昔から無意識に受け継いでいる「病気の記憶」のために
病気になってしまうということです。
 
それでは、そうならないためにどうすればいいのか
記憶を手放して、ゼロになる必要があります。
ゼロの状態というのは、仏教の「空」の状態のようなもので
固執する心、思い込み、先入観、偏見など
知らず知らず身につけてしまった記憶をクリーニングしなければなりません。
記憶が消去された時、はじめて
自分が本来持っている能力を
発揮することができるようになるということでした。
 

では、どうやって記憶をクリーニングするのか
それは、とても簡単な4つの言葉を唱えるだけ
 
「ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。」
 
何かを変えようとか、こうなってほしい、と考えることなく
ただクリーニングに集中すればよいということでした。
 
ヨガの瞑想法では
「オーム」と唱える響きとともに目を閉じる瞑想法や
「ソーハム」と唱える瞑想法があります。
どちらも頭に浮かぶさまざまな想いをかき消してくれます。
でも、結構、これも続けていかないと
頭の中に浮かぶ想いと、唱えている響きが行ったり来たりして
忙しい思いをします。
 
また、ホ・オポノポノが、ヨガに通じるところがあるのは
ヨガでいうところのカルマという概念です。
カルマとは、行為のことなのですが
毎日の生活の中で自分が行うこと
これは必ず何かの結果をもたらします。
そして、それは永遠に続いていくそうです。
自分という存在が消えても、消えないので
日々の中で悪い行いはせず、良い行いを積み重ねます。
これにはヤマ・二ヤマという教えがあり

具体的な方法を示してくれています。
 
話しを「ホ・オポノポノ」に戻しますと、
先程の潜在意識については
「あなたの中にいてくれる大切な存在」とも書かれています。
いつもあなたのことを見つめ
正しく生きるために必要なメッセージを送ろうとしている
まるで、お母さんの役に立ちたい子どものようです。
 
私なんかも自己肯定感が低くて
落ち込んだりすることがやたらと多くて
自分で自分が嫌になるのですが
もしかしたら、クヨクヨやメソメソやため息は
自分の子ども(潜在意識)に悲しみや嫌な雰囲気を伝えてしまっていることになり
さっぱりクリーニングできていないのかも知れませんね。
 
今日、昔からの友人に相談したいことがあって

電話しようと思ったのですが
でも、忙しいだろうなとか
こんなまとまりのない相談されても困るだろうな、とか
みんな自分で考えて解決してるんだろうな、なんて考えていたら
気が引けてしまいました。別に遠慮する相手でもないのにですよ。
 
でも、ふと本棚の「ホ・オポノポノ」に目がとまり

数ページ見返してみたら

余計な考えを打ち消してくれました。

電話してみました。
 
心配は全く無駄でした。

友人はいつもの楽しい友人でした。
 
毎日を複雑なものにしているのは
執着する心、思い込みなのかも知れません。


そう気づいたときには
「ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。」
と唱えて忘れます。
 
誰に向かって?
 
自分の中の子ども

そう、自分自身にですね。

 

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パッチ・アダムス・トゥルー・ストーリー

ジョークを連発する

ユニークな療法で心と体を癒す

パッチ・アダムス


物語は、彼が自殺未遂の果て
精神病院に入院したところから始まります。


ジョークで人を笑わせ、心を癒す能力に目覚め
精神病院を退院。
医者を目指し、医学部に入学。
大学に併設されている病院に潜入して
笑いとジョークで患者たちの心を掴んで行きます。


医療制度の理不尽さを目の当たりにし
無料の病院を作りたいと考え
友人たちの協力により夢を現実に変えていきます。


しかし、
患者のひとりが恋人を殺し自殺するという事件が起き
ショックから大学を辞めそうになります。
さらに、免許もなく診療所を開いたことで
退学の危機が訪れます。


その苦難を乗り越えて

無事に大学を卒業するまでが描かれています。


映画はここまでですが
最後に流れる字幕に
その後、パッチ・アダムスが
独自の治療を広く伝えたことが記されています。


実在の精神科医を描いた映画でした。


1999年公開のアメリカ映画で
映像そのものが古臭い感じがしますが
全編にユーモアが溢れ、笑いながら涙がこぼれるという
不思議なストーリーでした。

 

ユーモアと笑いは身体に

快い高揚感を与えてくれます。

笑うと、エンドルフィンという科学物質が

脳から血中に放出されるそうです。

それが2分も続くと全身に行き渡ると言います。

 

また、笑いの起源というのは

危険が去ったあとの安心感を

仲間同士で伝えあうための表情だという説もあります。

 

だから、笑う時は、余計なことも考えないで

腹の底から笑うべきなんだな、と思います。

 

毎日、いろんなことを考えて生活していると

なんとなく最近笑ってないな、なんてハッとすることもあったりして。

 

笑いには、鎮静作用があり心身を落ち着かせて

免疫機能を活性化させる効果もあるらしく

健康によく寿命を伸ばすとも言われています。

 

年老いた私の母は、病院に行くと

先生の話をビクビクしながら聞いています。

聞かれたことに、しどろもどろです。

「できるだけ散歩にも行くようにしています〜」とか言ったりすると

さらっと流されて、「では、次はいついつ来てくださいね。」

と言われて定期検査は終わります。

 

病院から実家へ帰るとしばし

年老いた両親と、私と妻の4人の茶飲み話が始まりますが

私は、深刻にならないように

「前回とまったく同じ!何も進んでないみたいだよ」

と父に報告します。

そして、あまり変化のない老夫婦のささやかな日々や

昔話を聞いて、おもしろ、おかしく過ごします。

 

もしかしたら、こうやって楽しく過ごしていたら

いろんなことを笑って迎えることができたなら

病気のことも、生活の辛いことも

どんより深い海の底のような気分にならなくて済むかも知れない

なんて思います。

 

パッチ・アダムスでは

精神の病になった人も、重い病気でベッドを離れられない子供も老人も

死にゆく人も、みんなみんな笑いを求めていました。

 

恐らく私も、私の周りの人もみんな、そうなのでしょう。

だから、できるだけ深刻な顔はしないようにしたいと思います。難しいけど・・・

 

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秋がくれた切符

昨年の秋

どうしても、ヨガをきちんと教わりたくて

東京へ行ってきました。

WEBで探し

とても誠実そうなスタジオを見つけ、思い切って申し込みました。

 

私の勘は的中し

基礎から哲学、そしてアーサナのいろはまで丁寧に教えていただきました。

おかげで二人の先生と8人の友人ができました。

 

ただ、東京以外から参加したのは私ひとりで

スタジオを出るとちょっと寂しく、東京の夜を静かに過ごしました。

 

スタジオは西新宿でしたが

できるだけ安い宿を探し

その日は御茶ノ水でした。

ホテルに着いて

夕飯を食べられるところを携帯で検索しました。

居酒屋やラーメンという気分ではなかったので

界隈で評判の定食屋を探してみました。

 

エリアを広げながらいくつかチェックしていると

東大の正門の前の「吉田とん汁店」という店に目が止まりました。

口コミを見てみると、なんと豚汁一本やり!

しかも、680円!

その日の気分にピッタリだったので

20分ぐらい歩きますが、「吉田とん汁店」を目指しました。

 

到着すると、カウンターだけの店内

客が数人、とん汁定食を食べていました。

店主が一人で切り盛りしています。

 

当然、とん汁定食をお願いし、トッピングにイカの塩辛ももらいました。

ご飯にとん汁、漬物と小皿2つ

とん汁は大きめの器で

豆腐とジャガイモがたっぷり入っていました。

 

とっても美味しくて

身体の奥まで温まる満足のいく夕飯となったのです。

 

向かいの信号を渡ると

東大の正門はすぐそこでした。

数年前に一度、仕事の関係で訪れたことがあったので

懐かしく眺めました。

秋もだいぶ深まっていて

色づいた銀杏の葉が、今にも枝から落ちそうに揺れていたり

歩道に落ちて重なりあったりしていました。

 

その時、アイポッドから流れて来たのが

ミスターチルドレンの「秋がくれた切符」

 

風の匂いもいつしか  秋のものになってた

カーディガン着た君の背中見て  そう思う ♪

 

記念に一枚、銀杏の葉を拾い手帳にはさみました。

いつか、ふと手帳を開いて、その葉っぱを見た時

東京でヨガを教わったこと

二人の先生と8人のヨガ友ができたこと

とん汁のあったかさ、そして、この曲のメロディーが

秋風の匂いとともに、甦ってくるのだと思います。

 

もしも、「吉田とん汁店」に行かれるのでしたら

夜は少し早めの時間がおすすめです。

混んでいたり、とん汁かご飯がなくなると早めにクローズしてしまいますので。

それと、ミスチルのこの曲も

優しいメロディーで癒されます、ので、おすすめです。

 

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